2018年度JIA新人賞講評

2018年度 JIA新人賞  現地審査作品
作品名 設計者 事務所名
組積の小屋/大栄鉄工所倉庫棟 塚田 修大 塚田修大建築設計事務所
houseA/shopB 木村 吉成
松本 尚子
木村松本建築設計事務所
Dragon Court Villeg 佐野 哲史 Eureka
Good Job! Center KASHIBA 大西 麻貴
百田 有希
一級建築士事務所 大西麻貴+百田有希 /o+h



講評:富永 譲

 

 62作品の応募があり1次の書類審査で10作品が現地審査候補として残り、2次の公開審査の会場で、説明を受け、質問をし、審査員間での討論があって、結局今回は4作品を選び出し、現地に出掛け、建築を経験し、賞を決めた。2次の公開審査の席でも、JIA新人賞に関する審査員間の活発な討論があったので、私の感想を記し、次に各作品を巡った時の印象を述べ、選評としたいと思う。
 新人賞の選考委員は10年ぶりであるが、街のなかで新人の手掛ける作品がますます2極化しているように感じる。大規模なのか、小さな住宅やアパート、改修なのか。日常の都市生活の質に一番影響する、中間のスケールを手掛ける建築家の領域は新人にとって一体どこに消えたのか。問題である。プロポーションとかリズムとか、人間尺度そして素材に関する素養、そうした当たり前のものをとおして、生活に〈大らかなもの〉、〈美しいもの〉を与えて、幸せにしてゆくのが〈建築の力〉であると私は思っている。
 JIA新人賞のうたう「才能に恵まれ、真摯な努力を重ねている新進建築家の作品」というのは人目に新しい実験や今風の社会構想にあるだけではないだろう。〈息苦しい〉マニエリステックな洗練より、〈伸びやかなもの〉に向かってほしいと思う。審査をしていて建築の基本的な素養、プロフェッション固有の素朴な領域が若い人に徐々に失われ始めているのかと感じたのである。金銭万能の社会は人間を追い詰め、建築を一片の経済、一片の情報としようとしているのかもしれない。
 「モノづくりからコトづくりへ」というような言い方をされることがあるが、それは作品としての建築から場としての建築への変化ということができるだろう。「モノ」という名称は美術分野で「もの派」として使われたことがある(関根伸夫の作品など)ので紛らわしいところがあるが、設計の目的が「作品づくり」であるという立場である。建築作品の形象を追求する点から言えば「カタチ派」と呼べるかもしれない。

 現地審査を行った順に、作品の印象を述べたい。
 Good Job! Center KASHIBA
 資本と商業の跡がびっしりとこびりついた稠密な大阪の中心部から離れて、近鉄大阪線を走ると車窓の風景は、〈河内国分〉をすぎたあたりから、人間の生活の痕跡をそこここにとどめる自然のものにかわってゆく。寂しいような風景なのであるが、何かホッとした開放感がある。この建物はそんな〈郊外の風景〉のなかにポツンとある。
 興味深い建築の構成である。一つの空間の先にニュアンスの異なった空間が拓けていて全体が繋がってゆくのである。面が奥行きを生み出しているその構成方法に、〈建築的なもの〉を感じ、興味深かった。それらが一方で架構体の秩序に係わりながら、一方で身体的な移行の経験に基ずくものであったから、この建築の全体の秩序をめぐる設計作業が、長い時間を要し、困難だったのであろう。全体構成に発想の出発点のわからないとりとめのなさは残るのであるが、スケールも良いし、プロポーションやリズムの吟味も充分で、インテリア的でなく、建築的な感動を内部にもたらしている。離れた2つの建物は、控え目に街に働きかけているが、その丹精された細部の表現が際立ち、郊外の風景のなかに連合している。ワークショップのプロセスが建築を豊かなものにしたというのは一面の事実であろうが、彼らには建築の秩序に関する独自の探求を続けて欲しい。
 Dragon Court Villeg
 この9つの賃貸住宅は岡崎市の郊外、車が移動手段の平地に建っている。書類審査の段階から、理知的な、いわゆる設計的なアプローチがあり、写真を見ると興味深い空間が生み出されていた。整然とした中庭の建築形式を変形、変容させながら、多彩な空間を部屋間に生み出し、その余白を共有しようとする試みは、方法的である。
 現実に訪れてみると、エレガントな木の骨組みによって、立体的にボリュームが中空に配置され、中庭の空間は魅力ある姿で、群としての集合居住の可能性を示していた。集落調査での知見があったのかもしれない。一住戸の内部を辿ると、高さ方向のスケールの設定に無理があったのか、階段は急であった。立面の風のシミュレーションといった出来合いの学問で、高さを決めたとの説明があったが、住人の日常の身体寸法は、もちろん風より重要なファクターである。庇のなさ、露出した木の骨組み等、建築の〈空間として〉ではなく〈物としての持続可能性〉は工費や今後の課題であろうが、こうした街をつくる賃貸集合の姿は本来、利潤本位でない、公的な住宅建設が取組むべき課題であり、開かれた提案であり、是非頑張って社会に働きかけてもらいたいものだと思う。
 houseA/shopB
 京都の3.8mの間口の職住一体型の住まいである。訪れると850㎜グリットの住まいの空間は、内部に親密なヒューマンスケールが展開し、随所のディテールに心入れがあり、実に楽しいものであった。細部の造形の工夫を試みているのだが、これまでの建築家としての経験や自信に裏付けられているようで頼もしい。都市の中での〈生活と商いの場〉は同じ設計者の別の作品の応募があったが、一連の安定した密度の高いシリーズの仕事をされている建築家であり、そのことは社会が希求する建築家のプロフェッションのあり方の一つでもあろう。現代のコスト高の社会のなかで、質を持った、チョットいいものをつくることがいかに困難であり、経験と忍耐強い探求を要求するかということは強調されてよい。
 組積の小屋/大栄鉄工所倉庫棟
 応募は、鉄工所の危険物貯蔵庫である。書類審査で、プロポーションといい、その佇まいといい実に格調のあるものであったが、何故、人の住まない16㎡の貯蔵庫を作品として出したのか私は興味を持った。コンクリートブロックによる新しい工法上の工夫とディテールが提示されていた。それは純然たる物の秩序に関する探究だった。しかしすでに設計者は以前に大規模なローコストの鉄骨の工場棟と事務棟を脇に完成させていて、審査では、その2つとこれから工事が始まる大きな事務棟の模型と図面を現地で見せてもらうことになった。まず感心したのは、姿や形は一般だが、普通の工場の空間が、いかに鉄骨量を少なく、スッキリと美しく創られていたかということである。経験ある設計者がコスト減の為にすべてを分離発注で目を光らしコントロールしていることもこれからの建築家のあり方かもしれない。現在設計しているオフィスプロジェクトも、3種の鉄骨架構の秩序と空間の関係を扱った期待の持てるものであった。
 新人賞は、作品を通して人を選ぶということであったし、この小さな貯蔵庫に心を込めるその意気は素晴らしいが応募作品の評価だけでなく地味ではあるが、依頼主の求めに応じて8年前から一貫した方向で真摯な努力を重ねてきた人はふさわしいのではないかということになった。

 


講評:西沢 大良

 

 大西麻貴・百田有希の「グッドジョブセンター」は、現地を訪れるまで気付かなかったが、非常に新しいタイプの建物だった。第一に、施設の活動が新しい。この施設は障害者支援を行う福祉施設だが、実際には一種のデザイン工房や工場のようでもあり、またユニークな職業訓練校のようでもあり、障害者と健常者が集まる交流施設のようでもあり、一風変わったカフェ付き店舗のようでもあった。事業主は最先端の障害者支援を行うNPOで、知的障害者のデザインした商品を開発したり販売するという、新しい福祉活動・経済活動をここで行っているのである。この「知的障害者によるデザイン活動や商業活動」というのは未曾有の事態であって、圧倒的に新しい活動だ。少なくとも従来型の福祉施設で行えるような代物ではなく、前例のない建物を設計者に要求することになったのである。第二に、この未曾有の事態に直面した大西百田が、最終的に編み出した設計手法も新しかった。彼らはこの活動のための器を少しずつ構想し、徐々に先入観を捨て去って、未知の設計手法に辿り着いた。その過程は高く評価されるべきもので、多くの設計者にとって一聴の価値がある。そこで、以下ではこの設計手法が生み出された過程を、私の理解した限りで解説しておこう。
 プロポーザル時点の南棟案(以下、A案と呼ぶ)は、2層分の高さをもつ複数の大壁によって施設全体を細かく分節し、場の連続として構成するという案だった。このA案は、やりたいことはわかるのだが、決して良質な提案とは言えない。その理由は「知的障害者がデザイン活動や商業活動を行う」という未曾有の事態にたいして、建築の幾何学(大壁の垂直性と分散配置)が強すぎるからである。そもそもこうした幾何学の強さが設計案に現れる時、その背後に、人間の活動にたいする設計者の盲目性が潜んでいることを、あらゆる新人は自覚せねばならない。だがその後、障害者たちとWSを続けるなかで、大きな案の変化が2回生じている。最初の変化は倉庫を1階から2階へ移し、商品棚とともに外周壁に沿わせたB案が登場したときだ。このB案は、見方よってはサヴォア邸のような明快な幾何学をもつため、最終案よりも評価する人もいるかもしれない。だが建築の幾何学性、すなわち人間の活動にたいする盲目性は、A案よりも強まった節もあり、案が根本的に新しい方向に進んだとは言えない。むしろB案の取り柄は、知的障害者特有の事実が、ようやく案を動かし始めたことにある。例えばこの施設における倉庫は、収納される商品が障害者による手芸品や工作品で、どれも小さく軽い商品体ばかりのため、一般的な倉庫の位置(重量物の搬出入のため1階に設ける)を順守する必要がないという事実がある。B案以降、2階に倉庫を設けながら1階に制作スペースや販売スペースを配するスタディが続くのは、そうした商品体を重視したことの現れである。最後に出現するC案も、商品体とそれを扱う人間について、さらに研究を深めた結果である。最終案(C案)では市松状の壁や衝立て状の壁、腰壁や棚壁などのさまざまな小壁によって、施設全体を分節したり連続させているが、これは知的障害者によるデザイン活動や商品制作が、壁の高さや広さを頼りに行われるという事実に根ざしている。以上、2回の大きな案の変化には、新人らしからぬ鋭い嗅覚と、度胸の良さが現れている。
 完成した「グッドジョブセンター」は、あえて乱暴に言えば、幾何学バカには設計できない建築である。そういう人にはA案やB案は設計できても、C案だけは無理なのだ。C案はもう幾何学でなく、代数的に空間を組織しているからだ。小壁の高さや広さ、離し方や近づけ方が、障害者の行動をいかに変化させるかという局所的な法則性だけを手掛かりに、代数的に場を展開しているのである。ゆえにその分だけ幾何学は壊れるのだが、この壊れ方には意味がある。それは幾何学が下手なのでなく、幾何学的建築では実現できない課題に挑んだからである。知的障害者によるデザイン活動や商業活動という未曾有の事態を建築化した大西百田は、形のないものに形を与える作業を全うし、十分に賞賛に値するだろう。

 塚田修大の「組積の小屋」は、その存在を知る人は少ないと思うが、非常にオリジナルな作品である。延16m2の極小の塗料倉庫で、内部空間もほとんどないのに、どこをとっても新鮮だ。構造はS造で、30Φのスチールロッドの柱6本で屋根の格子梁を支え、柱の脚部と頭部を剛接にした、なんとラーメン形式である。ロッド柱の周りには十文字柱状にRCBを積み上げて、ロッドの座屈を拘束している。仮にRCBを1ピースづつ取り去っていくと、この小屋は玩具のダンシングフラワーのような愛らしい動きを見せそうなほど、ユニークな構造である。また、この倉庫は鉄骨の錆止め塗料の保管庫で、隣に立つ巨大な鉄工所(設計は塚田による)の付帯建築なのだが、母屋の増築時には塗料ストックも増やす必要があり、この小屋も拡張される可能性がある。ゆえに張壁のRCBは撤去可能な納まりで、東西南北どの方向にも小屋を拡張可能にしている。現在、母屋はすでに大幅な拡張工事中だったが、もしこの小屋が平面で10m×10m程度の大きさに拡張されたとすると、上述した構造・工法のアイデアはさらに輝きを増すだろう。全体としてどことなくユーモラスなこの小屋は、しかし投入されたテクトニクスは的確で、適用の仕方は極めて独創的である。
 隣の巨大な母屋についても触れておこう。母屋は延7000m2に達する巨大な鉄工所で、アノニマスな大型工場によく見られる大規模切妻建築だが、予算と工期の厳しさにもかかわらず、秀逸な生産施設である。とくに内観が素晴らしい。屋内はたっぷりとした気積で、上空に自走している巨大な水平クレーン(歩道橋のようなスケールをもつ)もまったく気にならないほど、空間にストレスがない。壁面は廉価なデッキプレート状の単板だが、トップライトやケラバの通風スリットからの間接光が美しく、まるで広大な舞台背景のようである。構造は鉄骨造の片方向ラーメン形式だが(妻方向が山型ラーメン、平方向がブレース)、よく見ると平方向のブレースを千鳥にして柱脚の応力集中を避け、巨大な壁量とスパンにもかかわらず柱のメンバーは端正だ。千鳥の間口もゆったりとした寸法で、よく片方向ラーメンの空間で感じる不自由感(方向の拘束性)がない。増築の方向性にも自由度があり、目下工事中の増築は既存の母屋を平方向へ延長するのでなく、妻を並べる方向に連棟のように増築棟を建て、ブレースのない千鳥部分を介して室内を繋げている。さらに室内を細かく見れば、酸素やアルゴンガスといったボンベ類を戸外に排除しており、よく鉄工所で見かける醜悪な作業風景(ボンペ類やチューブ類が足元にのたうち回ってスクラップのゴミ捨て場のような光景になる)を阻止している。全体としてこのアノニマスな大型工場は、随所にテクトニックな介入が効果的になされ、空間全体が上質なものになっている。上空の巨大なクレーンからGLの小さな作業員までが、やけに美しく見えるのだ。そのような工場建築は、私見によれば前例がない。
 塚田による二つの作品は、今日の建築界では誰も手を出さなくなった、即物的な産業施設である(倉庫と工場)。そうした施設のもつ空間的な可能性を、かくも鮮やかに引き出すことは、高度なスキルなしにはありえない。傑出した能力をもつこの新人を表彰できることは、審査員として光栄である。

 


講評:平田 晃久

 

 新人賞というのは何らかの「新人性」に対して与えられるものなのだと思う。最終選考に残った4作品はどれも高い質を持つものだったが、この新人性という観点からはそれぞれの見方ができそうだ。
 o+hの「Good Job! Center KASHIBA」は、極めて率直な意味で、新人らしい魅力に溢れている。彼らは新しい建築のつくられ方と不可分な、生き生きとした空間を提示した。「プログラム」という言葉が、言語的に記述可能な使われ方のことを指すのだとする。この作品は、現実の人々の多様な振る舞いに対して、プログラム的思考が投げかける網目が途方もなく粗い、という事に気付かせてくれる。設計は(というよりプレ設計は)、「Good Job! Center KASHIBA」とは一体何か、を施主や他の関係者たちと話し合うところから始まったと言う。プログラムとしてリジッドに記述されたものに形(フォーム)を与える、という定型化された建築家像を越えて、ガバナンスや個別の棲み込みのありようと空間の設計を、動的に絡み合わせながら建築をつくること。それを手探りで何とか成し遂げた挑戦と成果が、建築を訪れることで一気に了解された。
 塚田修大はベテランと言っていい年齢だが、極めてユニークなレベルの「新人性」を提示した。作品「組積の小屋/大栄鉄工所倉庫棟」は一見控えめに見える。しかしそこには既知の建築のつくり方への不確実な挑戦が秘められている。この建築は、同じ作者による鉄工所の他の建物と並んで建っており、そのような独特の「コンテクスト」の中で、その挑戦の砦のような質を浮かび上がらせていた。中央の事務棟は、鉄板を用いた構造表現が印象的。その背後にある工場棟は大スパンの透明で徹底して機能的な美しさを持つ。次期には新事務棟も計画されている。そんな中で極端にスケールが小さく、人が使うわけでもない危険物保管庫の設計に、作者は全く手を抜かないのだ。むしろ自らが作ってきたものも含めた既存の建築のテクトニクスを刷新する静かな爆発力をそこに秘め、独特のユーモアすら漂わせる。それら全体から溢れ出る建築への誠実さに、一同心を打たれた。
 エウレカ(Eureka)による「Dragon Court Village」は構造や環境のエンジニアも含めた若い設計者集団による集団的思考が、街に新たな営みを投げかける、爽やかな建築である。それぞれの住戸に独立性を持たせ、背反する条件を並列させながら集団で思考する方法論は、風のシミュレーションを用いたボリューミングの調整などと合わせ、単線的思考ではつくり出すことのできない新しい建築の可能性を感じさせる。とはいえ、実現された状況は必ずしもその方法論の射程が体感できるものではなかった。特に内部空間において、集団的思考を媒介する建築的オペレーションの結果がそのまま現れ、快適とはいえないような空間がいくつかできてしまっていた。個人的には、集団思考を生かしたからと言って、その集団の中の個人の身体感覚に照らして、その結果を吟味し更新してはいけない理由は無いように思う。エウレカが新人賞にふさわしい新しい思考法、設計集団のあり方を模索していることは確かだ。しかしその方法論がもっと突き抜けた地平をはらんでいるだけに、つい見方が厳しくなってしまう。
 新人性、と言うことを巡って、議論が難しく、少々意見が分かれたのが、木村松本による「houseA / shopB」である。しかし議論はともかく、作品のクオリティは高い。クオリティを支えているのはこの作品全体に行き渡る構成要素(とりわけ寸法的な)間の有機的緊密性である。複雑な立体パズルのように、意図なしでは出会うはずのないものがきちんとかみ合っている。一見ドライな反復的操作の産物のように見える架構システムも、最終的に生まれる各部の寸法と出会うよう熟慮されている。その結果生まれるそれぞれの空間のプロポーションは、独特のものだとしても決して意図せずに生まれてしまったものではない。そしてこの絶妙な関係は店舗で扱っている金物のレベルまで行き渡る。徹底しているのだ。優れた作品であることは間違いない。しかしこの作品が持つ「新人性」を巡って議論が別れた。ここで提示されていることはいかなる新しさを持ち、どのような展開の可能性をはらんでいるのか。
 見方によっては新しさと言うよりある種の洗練の極みのような建築かもしれない。しかし個人的にはある新しさが直観された。それは、彼らの方法的徹底が、空間に裏表をつくる演劇的手法とは無縁であり、言うなれば空間を裏からも表からも、あらゆるスケールに渡って明確に意識して設計する過剰な視線を提示しているから、なのかもしれない。それはスマートフォン的あるいはAI的とすら言えるような、あらゆる物事の細部を等価に見尽くす視線であり、ある種の現代性をはらんでいる。この説明が彼らの新人性を言い当てているかどうか分からないが、そう言う説明でさえ、僕は(そして彼らもだが)審査の限られた時間の中でうまく言語化できなかった。
 いずれにしても、最終選考に残った4作品の「新人性」を巡るポテンシャルは高く、それぞれに異なる方向性を持っていた。審査は良い意味での緊張感に満ち、自分の建築を考え直す意味でも、貴重な機会となった。