2001年度JIA新人賞講評


講評:高橋 晶子
審査させていただく立場になり、力のこもった作品に触れる楽しみと同時にある種の緊張を覚えた。「新人賞」とはどんな性格の賞なのか。賞のイメージと合う作品と人を的確に選べるか。たぶん、毎年繰り返される審査への問いを自分に投げかけていた。私は、作品からにじみ出る個性・創造性を通じ、建築家の可能性を感じる度合いの強さを基準にして審査にのぞんた。
 現地審査対象となった5作品はいずれも、見に行きたいと思わせる何かを持っていた。見に行きたいとは、言い換えれば、期待と不安が混ざり合ってとにかく自分の身体で確かめてみたいということである。たまたまこれらの作品はいずれも事前に雑誌に発表されていて、その印象が多少とも残っていた。その印象と現地体験との距離を、今回予想以上に感じることになった。

 中村 勇大さんのST-1/斜めテラスの家は、スロープを小住宅に貫くという思い切った構成である。神戸の典型的な南傾斜の地形に造成された土地に建つこの家は、上り坂のアプローチ道路から折り返したように外側のスロープが始まり、折れながら2階のエントランスに至る。ドアを開くとまたスロープが待っていて、屋上まで導かれる。このスロープがオーバーアクションではないかという不安と、元気よい空間構成へのスッキリ感が交錯していた。見に行って、大枠納得がいった。
 断面的におおらかで多様な場所が上2層分にわたって生み出され、子供室、リビング、仏間、キッチンなどが、個別性を保ちながらひとつの構成に参加している。スロープに支配されているという感じはなく、そこに暮らすクライアント家族も非常にのびのびと、一見ハードルの高そうなこの家を楽しんでおられた。住む過程で出てくるいろいろな物の存在を受け止める骨太さも感じた。ただ、アプローチのスロープが他と比して存在感が軽いこと、最下層が構成に積極的に参加していないことが惜しまれた。

 渡辺 誠さんの大江戸線飯田橋駅は、ハードユースな公共施設がともすれば減点法的、慣習的な制約で身動き取れないものになりがちななかで、非常に独創的な提案を実現している。換気塔のオブジェクティブなデザインは(現在のデザインの潮流への反対表明ということはその造形の迫力ですぐわかるけれど)正直、共感しかねた。しかし地下空間の方は興奮した。
 雑誌では昇降路の上空を舞うワイヤーフレームが主として紹介されていたが、むしろ地下に降りてからの通路とプラットフォームに強く惹かれた。シールド工事で削り出す断面形をそのままあらわにすることで、強い空間性と流動感が獲得されている。この流動感により、インヒューマン(悪い意味ではない、念のため)かつスリリングな感覚がもたらされ、さまざまな機能的部分(例えば照明、消火栓、ベンチ、視覚障害者用誘導表示までも)がつくり込まれた結果、土木的なトンネル空間はすべてに建築家の手が入れられた密度ある場所として感じられた。

 THTアーキテクツの宮本三郎美術館は、古い倉を再利用し、スケールとモデュールを合わせたシンプルな新棟が前庭を挟んで並び立ち、非常に巧みに街並に溶け込んでいた。倉を残すためのハイブリッドな構造のアイデアや、展示室の恒常性を確保しながら全体構成との関係を表現する設計の方針は、この作品を充実した納得いくものにしている。倉棟の通路と展示室との間仕切上部、木造トラスと鉄骨方立の取り合いには別解の思いが残った。

 山口 誠さんの中山の住宅は、ルーバーで覆われた寡黙な黒い箱の中に、私室群、土間、共用室が短冊状に配されたミニマルな表現の作品である。中央の土間が私室と共用室との距離を生み出す中間領域として、また内部化された外部空間としてうまく機能していると感じた。ただ、このプランニングと外観がもたらす具体的生活像がどういうものかを実感するにいたらず、平面図式が生のままにすぎる印象を抱いた。私室と土間を仕切る大ガラスも、小住宅の中では気になった。

 宇野 求さんのVILLA FUJIIは、見る自然と体験する自然を分けて捉え、映像的に展開するシーンの断続としての建築を目指しており、建築はまさにそのように作られている。しかしこの知的な自然の再構成と、ロケーションの生の空気感を現地で同時に体験すると、後者が勝っている感が強く、それは例えば「風が通らない部分に対する素朴な疑問」というかたちで現れた。提示されたテーマは重要な意味を持つと感じるだけに、宇野さんの今後の展開に希望を託す。

講評:高橋 てい一
今回の現場審査に残ったものは以下の五つであった。即ち、
1. 地下鉄大江戸線・飯田橋駅
2. ST-1/斜めテラスの家
3. 宮本三郎美術館
4. VILLA FUJII
5. 中山の住宅
である。
 
初めに今回の選に洩れた三つの作品について書く。
 「宮本三郎美術館」はいかにも瑞々しい端正な作品だと思う。さすがにオープンコンペを勝ち抜いてきただけあってコンセプトも明快である。作者のこうした思いが痛々しい程見えるだけに其の後のキュレータを含む行政の人達との協調の中でこれをやり抜けた部分とやり抜けなかった部分、更にはこの建築そのものが見せる幾つかの破綻等々がこれに重なって見えてきて残念なところがあった。35才前後というチームの人達にはこれからのチャンスに期待したい。

 「中山の住宅」はこれも若い建築家山口誠さんの作品。黒々としたタテ格子に囲まれた住宅に入るのが少し逡巡される様な佇まいだが、内部は至って明快単純。住み手とのハーモニーも確かだし気持ち良く住みこなされている。ただ私見だが、やはりこうした囲み方には何かしらもう一つの提案と絡んでその両者対比の中で新たな生活のリズムが発見できたらと思わずにはいられない。

 宇野 求さんの「VILLA FUJII」は、軽井沢の自然と一建築のボキャブラリーが時に不協和音を響かせているところが口惜しい。空間のアーティキュレーションとそこに見出される数々のディテールにはやはり、何故、こうでなければいけなかったのかと云う思いの方が強い。更に苦言を堤するなら、設計者にとって建築の現場程恐ろしいものはない事は作者程の力量の人が分かっていない筈はない。此の人の一皮剥けた作品が早く見たいものだ。

 次に入選作品について
 中村 勇大さんの「ST-1/斜めテラスの家」はこの家の住み手に負うところが大きいのと同時に勇大さんが常套としているスロープの作品がこれ程フィットする家族像はなかなかないのではないか。住み手との濃密なコミュニケーションによって、2人の子供さんまで完璧にエンジョイしている空間をつくり出した勇大さんの勇気の大きさは見事だと思う。

 最後に、渡辺 誠さんの「地下鉄大江戸線・飯田橋駅」。食わず嫌いという言葉があるが、渋谷にあるデザイン学校の側を通るたびに目をそむけていた私にとって思いきって食ってみたら意外にも……、ということが今回実証された。審査員の1人横河さんがギマールと並べて書かれた換気筒は私にはどうでもよいことで何よりも中味である。延々1km近い地下鉄構内をこれ程のコンシステンシィをもって貫き通した説得力+政治力(?)には脱帽の他はない。1kmに及ぶ端から端まで続く工事筒道をそのままの形で残し乍らその内部に込められた全てのデザインに見る執念は驚異である。こうしたデザイン力が公共の中でしっかりと根づいた時、真の意味で土木と建築が一つの形で市民に奉仕できる日がくるのではないかとも思われる。


講評:横河 健
ここ数年の新人賞の審査には教育研修委員長として立ち会ってきたものの最終審査では二人しか選定出来ないという、その難しさは覚悟はしていたが、いざ自分も審査に参加してみるとその重圧はやはり相当なものであった。

 渡辺 誠の「地下鉄大江戸線・飯田橋駅」は、シールド工法による地下鉄土木の躯体を存分に使った独自の空間を構築している。とくにウェブフレームと呼ばれるコンピューターを駆使したセルフ増殖システムによるデザインは全くいままでにない地下鉄駅舎空間を創出した。また、換気塔を兼ねた昆虫の羽のようなデザインの出入り口は、パリのギマールの地下鉄入り口のように歴史に残るものとなるであろう。発注者の実体はデザイン制限の厳しい都の交通局相手なので既設の枠組みからはみ出すことがきわめて困難であることは私自身の経験からよく承知している。渡辺がきわめて厳しい状況のなか、安全性はもとより地下鉄運営の機能を妨げることなく、むしろ乗客たちに対して解りやすく独自の新しいデザインを作り上げたということは奇跡に近いのではないだろうか? 渡辺の仕事が建築界に現れたのは最近のことではないが、彼の評価は海外で高く認められている割に日本での評価が定まっていなかった。その意味ではJIAの新人賞の授与は今後正確な氏の評価の契機になることであろう。

 中村勇大の「ST-1/斜めテラスの家」は神戸の丘の住宅地にあって、外部と内部の二重の斜路が中心課題になっている住宅である。古くから、斜路を利用した設計手法はシークエンスの変化や視点の動きを操作することによって、いきいきした建築を作り出してきた。その意味では何も新しいことではないが、きわめてローコストの鉄骨構造による住宅に応用されたこのような例は知らない。とくに住宅内部の中心に貫通する斜路は通常外部の足場に使用するラフなもので少々痛々しいが、しかし、そのラフさ故に住宅の共有空間にダイナミズムを与えていて楽しいのびのびとした住宅に仕上がっている。出来れば、丘の上というロケーションを生かし、景観をもっと享受できる床レベルを設定すべきだったであろうし、坂道を利用した外部斜路は内部の居間としての共有スペースと関係させたらもっとよくなったと思われる。

 宇野 求の「VILLA FUJII」は軽井沢の唐松林にあって安易な牧歌的姿に甘んじることなくモダンな容姿とコンセプトを見せている。このVILLAが普通の別荘から際立って見えるのは、家族と友人たちとの新しい別荘ライフをモダンに享受するための必要十分な設備とともに、個人の住居スケールとすれば大きなボリュームを新谷 眞人とのコラボレーションによる構造と、いくつかの棟に分節しながらきわめて洗練されたデザインを見せていることである。惜しむらくは最後の詰めというかディテールの詰めと、分節をしたところには風通しを得たいと思ったが、私はこの建築はもっと評価されてよいと思う。

 THTアーキテクツの「宮本三郎美術館」においては、三年前のオープンコンペを勝ち抜いてきたということもあって審査員一同から期待された作品である。敷地一杯に並列させた二棟はエントランスコートを挟んで新設棟のオープンな架構とともに開放的な印象を受ける。しかし蔵棟の包んだ印象と対比して開かれた展示棟としたかったであろう新設棟は、学芸員とのかなり厳しい対応のためかコンセプトを生かし切れた結果とは言い難い。しかし、詳細な納まりのことを除けば、プログラムコントロール他建築を建築化するべく社会性など十分に備えている仕事であり評価したい。美術館を空間化するための苦労の後は随所に認められるので現場を担当された八尾氏はじめ、この経験は近い将来きっと華を咲かせるに違いない。

 山口 誠さんの「中山の住宅」も、外見は非常にストイックな表情のない顔をしている。真っ黒な箱に周囲ぐるっと縦格子が取り付けてあるエレベーションであるから、内部を伺い知ることは出来ないが、実際内部に足を踏み入れると様子は一変し、玄関ホールと称した外部感覚の通路が箱を貫通していて、共有エリアである居間からその通路を介して個室の連続を見ることになる。しかし妙に意識が開かれた個室は全て外部に解放され全体はスケスケの箱であることに気付かされるのである。このような不思議な感覚を得た住宅は久しぶりで、このクライアントとの関係のようにあまり無理することなくごく自然に生まれたものであるなら、今後も期待される作家であろう。