■建築士の誕生まで

 「建築士」と「建築家」という2つの単語は何れも江戸時代末期から明治にかけて英語のアーキテクトの訳語として造られたようで、本来は同一の概念であったと思われます。しかし、何時の間にか2つの言葉には微妙なニュアンスの差が生まれてきました。一般に日本語では資格として使われる職業に「士」をつけ、尊称として言う場合に「家」をつける傾向があります。弁護士の「士」と画家の「家」が代表的な例と思われますが、それぞれ武士、家元あたりにルーツがあるのではないかと思います。そのためアーキテクト資格法制定への動きの中では「建築士」をアーキテクトの訳語として用い、「建築家」はもう少し広い意味の普通名詞として使われていたようです。現在では「建築士」が建築士法で定義された資格者の名称であり、「建築家」はマスメディアに登場するような有名建築士のことだと理解されているようです。社団法人日本建築家協会は建築家をアーキテクトの訳語として正式に使用する唯一の団体で会員たちは自らを建築家と称していますが、当然のことながら法的には何の根拠もありません。この節では、建築士と建築家の違いを述べるに先立って、「建築士法」が制定されるまでの歴史的経過を簡単に振り返っておこうと思います。

 明治以降に輸入された西欧建築と伝統的な日本建築とは同じ建築とはいえ、異なった文化の下に育ったため大きく異なっていました。使用される材料や技術が異なるだけではなく、建築を創り出す過程でアーキテクト(Architect)という職業が施工者とは別に存在していたことが大きな違いでした。日本には大工の棟梁という存在がありました。棟梁は万能で僅かな絵図面以外に設計図らしい図面もないままに、自らの経験と想像力だけで民家から大伽藍に至る木造建築を創り出すことができました。今日で言う設計施工一貫方式ですが棟梁の世界は意気に感ずれば損得を度外視して仕事に打ち込む職人の世界でした。
 明治維新を契機に西欧の文物を導入することが盛んになり、建築の分野でも国威を示すためにも西欧式の堂々とした建築が求められ、外人建築家を招聘して本格的な洋風建築を建てることが始まりました。やがて日本人自らの手で洋風建築を建てることが課題となり明治6年(1873)に工部省工学寮工学校が開校され、土木・機械・造家・通信・化学・冶金の7学科が設けられました。これがやがて工部大学校、東京帝国大学工科大学、東京帝国大学と変遷して行くのですが、明治12年(1879)に工部大学校の第1回卒業生が誕生します。イギリス人建築家コンドルに指導を受けた「造家学士」は、辰野金吾、片山東熊、佐立七次郎、曽禰達蔵の4名です。工部大学校造家学科は東京帝国大学工科大学となる明治18年までに20名の建築家第1世代を送り出しました。外人建築家に代わって彼らが活躍するようになる1880年代がわが国における建築家の誕生期と言えます。
 彼らは卒業するとただちに建築設計のチーフとなり数々の名建築を残しました。彼らは例外なく官庁営繕機構に就職し、発注者の立場で西欧建築技術の指導・監督する官僚としての高い地位を占めていましたが、反面、アーキテクトが備えなければならない自主・独立の職能意識や自らの創作活動を通じて国民に奉仕し、文化の担い手になるという精神的バックボーンを修得するという面がおろそかだったようです。『明治の指導者たちは、西欧の圧倒的に優越した文化に直面して、実にすばやい手つきでそれを「物質文明」と「精神文明」とに選り分ける。維新後の日本が当面していた問題は産業や軍備などの新文明で武装することであったから、摂取の対象となったのは、その「物質文明」の方に限定された。西欧においてそれを育ててきた巨大な思想的背景や精神的支柱は、最初から意識的に排除されたのである。こうした摂取のしかたにおいては、建築さえも機械や土木とともに技術の一分野として扱われることになった。西欧で建築がどれほど芸術としての系譜をもっていたとしても、わが国がそのような発達の道をみずから閉ざすことに何ら不思議はなかったのである。(山本正紀著「建築家と職能」より)』

 日本で芸大系以外の建築学科が工学部に設けられているのも、多分に上記明治政府の取り組み方に由来しているのでしょう。詳しいことは知りませんが、外国では独立した建築学部であったり芸術学部に設けられているようで、エンジニアリングとは別の分野とされているのが普通です。明治から大正にかけての建築学会は技術系の学者が実力者として君臨し、芸術系は肩身の狭い思いを余儀なくされていたようです。建築を技術主体で判断する風潮は戦後も残っていて、昭和25年(1950)に建築士法が制定されましたが、建築士は建築設計面での技術レベルのみが評価の対象となっています。建築士法は大正初期以降、制定が求められていたものがようやく法律として成立したものですが、最大の特徴は施行会社に雇用された建築士と、設計監理のみを専業としている建築士を区別していないことです。建築士を技術者として位置付けている以上、ある意味では当然のことですが、建築士法がこのような形で決着を見たのは、設計と施工を分離しない棟梁方式の土壌が大きく影響していたということができるでしょう。建築士法が何度も国会に上程され、衆議院を通過して貴族院に達したことも数回ありながら、ついに陽の目を見ることなく挫折した原因も、設計施工の兼業問題が争点でした。今の建築士法も原案では設計と施工を分離する方向で作られていましたが、審議の途中で建築士の専業、兼業を区別しない現行方式に修正されました。

 日本建築家協会の前身である日本建築士会は1914年に全国建築士会として設立され、太平洋戦争後、日本建築士会と名称を変えていました。そして建築士法が成立するまでは建築士をアーキテクトの訳語として使っていましたが、建築士法の制定を機に建築士資格者の団体が各府県に建築士会の名称で設立され、それらを統合する日本建築士会連合会が設立されることになると、設計施工を肯定する建築士制度に不満な旧日本建築士会会員は結集して社団法人日本建築家協会を設立し、以後、長い対立と論争の火蓋が切って落とされることになります。そして、この時を契機に建築士と建築家の概念が逆転することになり、日本建築家協会は建築家をアーキテクトの訳語として使うようになったのです。

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