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  JIA News 2001年12月号より

特集:60年代ふたりの巨匠

前川國男とヨーン・ウツソン


撮影:ヨーン・ウツソン1959年
三上 祐三

『素顔の大建築家たち』の刊行
 JIAの企画・監修で今年の6月に出版されたこの本は、日本近代の代表的建築家15人の人柄や仕事ぶりを弟子たちの目から見て記録した、たいへん興味深いドキュメントであり、会員の間で反響を呼んでいる。
 建築作品への理解が、その作者の生きざまや社会との係わり合い、事務所での仕事の進め方や弟子の育て方などを知ることによって深められることを痛感させられるという意味で、貴重な、かついかにもJIAにふさわしい出版物といえよう。

前川國男とその所員たち
 上記の本の中で、仲邑孔一さんと布野修司さんによって前川國男のことが語られているが、比較的晩年のことが多く取り上げられているので、ここでは私の接した50歳代前半の前川さんのことをいささか語りたい。作品でいえば神奈川県立図書館・音楽堂を完成させ、東京文化会館にとりかかろうという、もっとも意気盛んな時期である。私が芸大卒業後に吉村順三先生の紹介で入所を許されたのは、1956年の春だった。
 「設計事務所のワンマンコントロールの限界は30人」というのが前川さんの口ぐせの一つで、当時の設計担当所員は約25人だった。しかし彼はその一人一人の仕事をすべてチェックするわけでは決してなかった。前川さんが2階の所長室に入り、吹抜けの中にある木造の階段をコツコツと上がる音が聞こえると、3階の製図室にサッと緊張の空気が走る。ドアを排して入ってきた前川さんは、キッと身構えて、「さあ、今日は誰をやっつけてやろうか……」と全体を見渡す。
 ただし、大番頭で専務の田中誠さんや生え抜き所員の寺島幸太郎さん、崎谷小三郎さん、野々口夫さん、大沢三郎さんたちの所へは、前川さんは何か相談に行くことはあっても、決して彼らの仕事に文句をつけたりすることはなかった。彼らがディテールや現場監理の豊かな経験を生かして若い所員たちを指導し、それが事務所全体の仕事の質を支えていることをよく認識していたからである。
 前川さんのターゲットは、もっぱら入所後数年以下の若い所員がプランのエスキースなどをしている所だった。「君、ちょっとどいてごらん」と本人のイスにどっかり腰掛けると、描きかけの図面の上に巻紙のトレーシングペーパーを拡げて、時にはお説教まじりに、時にはオペラのアリアを鼻歌でうたいながら、お気に入りの黄色い軸で消ゴムのついた柔らかい鉛筆でスケッチを描きはじめる。プランの余白にちょこっとパースのスケッチを描くこともあった。それらは視覚的・感覚的というより、むしろ彼一流のプランニングの理念や、構造と空間との係わりあいを示すものが多く、いいかえれば皮膚の美しさより骨格の健康さを重視するものだったと思う。若い所員は前川さんの指示を素直に受けとることが多い反面、大高正人・河原一郎・鬼頭梓などのチーフクラスになると、それぞれの言い方で前川さんに議論を吹っかけ、それをまた前川さんが力づくでねじ伏せようとするやりとりを聞いているのも、若い所員たちの楽しみの一つだった。
 前川さんはこうして、気になっている数人の製図板を見て回ると、その他の人の仕事は横目でチラッと見るくらいで、サッと通り過ぎてしまう。こいつなら、この仕事なら、任せておいて大丈夫、という所長の勘が働いているらしかった。その意味で彼は太っ腹の人だった。
 だがある日、現場を見て戻ってくるなり担当者を掴まえて、「おい、お前の図面があんまりきれいに描けてるので安心して見にいったら、現場はちっとも良くなかったぜ、うまくだまされたなあ」といってカラカラと笑い、周囲の所員もドッと爆笑したことがあった。そんな余裕たっぷりの親分肌のところが、所員から「大将」と呼ばれて信頼され、慕われるゆえんだったのであろう。

走り書きの手紙
 1957年、シドニーオペラハウスの公開コンペで一等に当選したデンマークの建築家ヨーン・ウツソンは、初めて敷地を見に行った帰りに日本に立寄り、前川さんに会って親交を結ぶようになった。翌1958年5月、ブラッセル万国博日本館の完成を見届けて帰国の途につこうとしていた前川さんのところに、ウツソンからの走り書きの英語の手紙がとどいた。
 それには、「あなたの事務所から三人の若い所員がブラッセルに来ていると聞いたが、そのうちの一人を今シドニーオペラハウスの仕事をしている私のオフィスによこさないか」という内容が記されていた。三人とは雨宮亮平、木村俊彦、それと最年少の私である。飛行場へ見送りにいった私に、前川さんはその手紙を渡し、「どうだい、君、行って見るかね」といってニヤリと笑った。私は手紙を読むと、「はい、面白そうだから行ってみます」と即座に答えてしまった。その一言が、その後私を10年間ヨーロッパに留め、人生をすっかり変えてしまったことも知らずに。
 前川さんとしては、その時構想中だった上野の東京文化会館の設計の参考資料として、ウツソンがシドニーで何を計画しているのか偵察してこいよ、というくらいの軽い気持だったのかもしれない。またウツソンとしては、日本人のアシスタントは欲しいが東京から呼ぶのでは大変だ、ブラッセルからなら近くてちょうどよい、という彼一流の読みもあったのかもしれない。

ヘレベックのウツソン事務所
 こうしてウツソンの所で働きはじめてみると、東京の前川事務所との差や、逆に似たところがいろいろ目についた。両方とも強力なボスを中心にしたアトリエ事務所という点でよく似ているし、その雰囲気も近いので、私は難なくデンマーク人の所員たちの間に溶けこんでしまった。北欧の人たちの持つリベラルでオープンマインドの感性も大いにそれを助けてくれたと思う。実に楽しい毎日だった。

「シドニー・オペラハウス」 撮影:三上祐三 1967年

 ウツソンのワンマンコントロール体制は、前川さんの場合よりもさらに徹底したものだった。所員一人一人の描く図面を見るだけではなく、自宅でフリーハンドのスケッチをたくさん描き、その中でこれぞ、という気に入ったものを担当の所員に渡すのである。太い6Bの芯で描かれた彼のスケッチは、ふわっとした感じでじつに美しい。前川さんのスケッチが理念を表現しているとすれば、ウツソンのそれは全く感覚的で、彼の求めている空間の視覚的なイメージを表現したものだった。ほとんど「官能的」といってもよいだろう。その中にはたいてい二、三人の人の姿が描きこまれていて、スケール感を与えているが、寸法などは全く入っていない。
 だから所員はそのスケッチの雰囲気をなんとか守りながら寸法の入った図面に直していく、というのが重要な仕事だった。また逆に所員のほうから、別のアイデアの提案が出されることも多く、図面を前に二人が延々とディスカッションを続けている光景もよく見られた。ウツソンは個性の非常に強い人だが、反面所員のよい提案を評価して、自分のアイデアの中にたくみに取り入れてしまう柔軟性も十分に持ち合わせていた。だからウツソン事務所での設計作業は、いつも刺激に満ちた楽しいものだった。それらのアイデアをすぐに模型にして検証してみる、というのも大きな特徴だった。

完全主義のおとし穴
 ウツソンのこうした仕事の進め方は、デザインの質を高めるには非常に有効だったが、反面限られた時間の中で図面の作成をこなすという設計工程管理の面では、明らかにマイナスだった。前川さんが30人と称していたワンマンコントロールの限界は彼の場合6〜7人止まりで、それ以上は無理だった。一時仕事量がふえて12人まで増員した時期があったが、それではコントロールが行き届かないと覚るとすぐにもとの数に戻してしまったことを記憶している。
 私の参加していたデンマークでの基本設計の段階ではそれでよかったのだが、その後現場での工事が進み、実施設計図への要求が高まってくると、結局ウツソンは事務所をシドニーの現場に移し、人員も大幅に増加せざるを得なくなってきた。1963年2月以降のことである。

「シドニー・オペラハウス」 ヨーン・ウツソンのスケッチ

 その時ウツソンにとって致命的だったのは、前記の前川事務所の例でいえば大番頭の田中誠さん以下数人の大ベテランのような、設計工程管理、現場監理、見積チェック、新しいディテールの開発などのデザイン以外の仕事をしっかりこなしてくれる親衛隊的なスタッフを欠いていたことだった。デンマークではそれにやや近い先輩の人たちが3人ほどいたのだが、彼らはウツソンに従ってオーストラリアに移住することを家庭の事情などで断わったため、ウツソンはごく少数の若いデンマーク人スタッフのみを伴い、残りの大多数は現地でリクルートせざるを得なかったのである。3年近く在籍していた私自身も、その前年に構造家オヴ・アラップのアシスタントとしてロンドンのアラップ社に移っていた。
 ワンマンコントロールの行き届かない多人数の事務所で、現場や施主などから督促されながらの設計作業は大幅に遅れがちで、ついには施主である州政府の不信感を醸成する大きな原因にもなってしまったようである。デザイン上の完全さを追い求めたウツソンだったが、それとはある意味で矛盾する設計工程管理の遵守という面で、大きなおとし穴にはまってしまったという感が強い。
 それにつけても、同時代の1950年代から60年代にかけての前川国男が、よくバランスのとれた事務所組織を持ち、優秀な所員たちを自在に使って、ほぼ思い通りの仕事をスケジュール通りに次々に完成させていった姿勢は立派だった。それは評論家佐藤由巳子のいう「大将の器」、すなわちスケールの大きな人間的魅力、を彼が備えていた結果にほかならないと思う。
 他方ウツソンの場合には、万人がそのデザイン上のたぐい稀な才能を評価する一方で、事務所内は別として対外的な人間関係などになると、人々の評価は毀誉褒貶相半ばするというのが実情のようである。やはり彼は、波瀾万丈の20世紀後半を生きた悩み多き天才建築家であった。当時の保守系州政府が、彼の悩みや欠点を政治的に利用したのは彼にとって大きな不幸だったが、それについては本稿では触れないことにする。
 それはともかく、この美しいオペラハウスの一作だけでシドニーの風景とイメージを一変させてしまった、彼のデザイン上の力量と環境への寄与は偉大なものである。20世紀を代表する特異な建築家の一人として永く歴史に残ることは間違いないであろう。

(参考文献:『シドニーオペラハウスの光と影』三上祐三著、写真=村井修、2001年5月彰国社刊)

みかみ・ゆうぞう
MIDI綜合設計研究所
関東甲信越支部・東京都