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山口文象 (1902年生れ、1978年逝去 享年76歳 )
 山口文象は、先月取り上げた土浦亀城より5歳若いが、前川国男よりは3歳上である。彼らが20歳代から30歳代にかけての時期は、まさに激動の時代であった。分離派建築会は既に結成され(1920)3年遅れて創宇社建築会も発足しb、その両者の運動に山内は積極的に参加した。そして、分離派の芸術至上主義観念を超えて、やがて「労働者階級経の連帯感」を強めていく。
昭和5年から2年間、グロピウスの下でヨーロッパの新しい建築の動向を見聞する。そして帰国後、日本歯科医科専付属病院の近代合理主義的な秀作の設計に取り組む。また、住宅作品においても、山田邸、小林邸、番町集合住宅などが造られている。
建築は、本来、社会的な存在であり、市民との関わりを問われる存在である。その「市民」という言葉が、ある時には「民衆」「人民」に、ある時には「労働者階級」に変わることがあったとしても、それらとの関わりをトコトン考えはじめたのが、山口文象からであった。
建築家というものは、造形という悪魔に魅せられた存在である。そして、ある時には、悪魔の誘惑にからめとられる自分を反省しながら、外の世界=社会に目を向けようとする。その分裂した精神に苛まれながら生きていく。山口もそうであったし。海老原一郎もそうであった。山口は、昭和3年、「合理主義反省の要望」という自己批判を兼ねた唯物史観を発表しているが、その後の彼の歩みはむしろ、戦後に繋がる合理主義的な作品か、数寄屋風あるいは民家風の和風住宅を設計し続けていく。戦後、個人事務所から共同設計組織への転換を図るRIAの発足にあたっても、「何日も閉じこもって一つの作品を作りだそうとする欲求」との葛藤に心悩ましている。要するに、山口は、造形という悪魔に魅せられた建築家だったのである。しかし、晩年になっても外の世界=社会について口を出さざるをえなかった。「一人の人間として」とか「社会の連帯」という言葉によってそれを表現しようと努めるのであるが、悪魔のほうがどうも魅力的である。しかし、この二律背反の問題は、開き直らない限り、今日でも、深刻な問題として存在し続けている。
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