浦辺鎮太郎は、JAAのある対談で、「人間が歴史をつくるのではなく、歴史が人間をつくる」と言ったポール・バレリーの言葉を引用しながら、「建築家が作品の原因なのではなく、建築家というのは作品の結果なのであり、例えば、倉敷の『アイビー・スクェア』なんかでも、浦辺鎮太郎がつくったんじゃなくて、浦辺鎮太郎というのは『アイビー・スクエア』の結果なのである」と語ったことに感銘を受けたことを思い出す。
かつて「建築年鑑賞」という「賞」の審査に関わっていた私は、最終候補に残った浦辺鎮太郎の「倉敷国際ホテル」と菊竹清訓の「出雲大社庁舎」のどちらにするか迷った結果、内部の使われ方への細心な配慮には感心しながらも外観があまり好きになれなかった前者ではなく、「革新的」な後者に投票したのであるが、それにも拘わらずというか、それだからこそというか、先の浦辺さんの言葉には強い衝撃を受けたのである。
浦辺さんは、建築家として少しばかり道草を食ってきた、そのことが、独特な思考を持った建築家たらしめた面があるのではないか。京大を出てすぐに、倉敷紡績の営繕に就職、戦争中は飛行機関係の仕事をし、戦後はクラケン型プレハブ住宅をつくるためのコスト計算や工程管理など「技師」とし
ての長い経歴を積んだということ、それに、倉敷の大原総一郎の庇護の下、倉敷という「自治的」な街に根を下ろして仕事をしてきたということ、それらのことが、その後1962年になって初めて独立した建築家浦辺錆太郎の強力なバックグラウンドを形成したものと見る。
まさに、浦辺鎮太郎は歴史の結果と自覚されたのであろうか。だからこそ「一建築家が作家意識なんかで勝手なことをやるのは見ておれない」とか、
「空理屈をこね回すヤツを見ると虫酸が走る」などと、平気で言ってのけるのである。
しかし、頑固な面だけでなく、温厚な人でもあった。道草を食ってきたことを「自分には要領が悪いところがある」と言っておられたが、しかし、その人生の中で一旦オリエンテーションを決めたら、何年かかろうとそれを変えてはならないとも言い、5年、10年という単位ではなく、30年という歴史的時間で考えるべきであるとも言っておられた。当然、孫の時代までである。 |