谷口吉郎は、昭和5年、雑誌「思想」に「ル・コルビュジェ検討」を発表した。コルの「ドミノ」をはじめとする機能性に基づく技術的成果に対しては高く評価しつつ、「形態の組合わせによって、精神の純粋創造たる秩序を実現する」その思弁的態度を批判した。しかし、批判しつつ、その精神に魅せられた谷口は、コルに対するアンビヴァレンスに苦悩しながらも、戦前、戦中における日本の詩人をはじめとする文学者や職人、芸人たちとの交流の中で、また、その間の渡欧、特にシンケルの建築との出会いの中で、谷口の建築家としての精神は磨きをかけられていったのではないか。そして、パリでのモネの壁画「睡蓮」との出会いに陶酔しながらも、そこで遠く「集学院離宮」を思い描く谷口の精神の中では、すでに西欧と日本の文化の伝統を通底する眼を獲得していた。
だからこそ、敗戦直後の1947年という厳しい時期に、藤村記念堂という傑作を作り得たのではないか。当時の貧しい材料の中から、あり合わせのものを使って、村人や職人たちの協力を得ながら、一つの見事な日本の「ふるさと」を作り得たということは、戦後、軽薄な東京モダニズムに浸っていた私ごとき人間には大きな驚きであった。
晩年のある対談で、「私など、京都に行きますと、板塀にちょっとものをくっつけてあっても感心しちゃう。呼び鈴一つ見ても、その付け方に感心する。まったく京都の大工さんはたいしたもんです」と語っていたが、それは、谷口先生がいまだ若かりしとき、木下杢太郎や高村光太郎から詩の話を聞きながら、「私たち建築家がどういう材料を選び、どう組み合わせるかということと非常に似ている」と感じたこと、そして、詩に日本人の言葉の本質的な息遣いが現われるように、建築にもそのような息遣いが感じられるものでなければならないと考えたことを、思い出しておられたのではないか。
谷口吉郎は、ご存知谷口吉生の父親であり、世代にわたるその精神の継承が如何なるものであるかを見極めることは、日本の建築にとって一つの興味ある問題である。JIAの源流のところでの貴重な営為が、どのように今日のJIAに受け継がれているかという問題でもある。 |