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松村正恒 (1993年逝去。享年80歳。)
 松村正恒の存在にまだ気が付いていなかった頃、必要あって戦前の雑誌『国際建築』を号を追って調べていると、昭和10年頃から松村正恒の名前による、バウハウス、グロピウス、ノイトラ、ライトをはじめ、米、英、ソ、瑞に至るまでの世界の建築界の紹介、翻訳記事のあったことを思い出す。その後、四国八幡浜市で新谷中学校、日土小学校をはじめ、多くの学校建築を手掛けられて注目されるようになった。
なぜ注目されるようになったのか?これまでの学校の先入覿を打ち破り、生徒本位の学校を造ろうとされたからである。思えば、戦前の『国際建築』時代、欧米の『近代』からその本質である人間生活のあり方(喜びも悲しみも)というものを学び取ったのであろう。日土小学校のように、プランニング上、外階段と避難のために教室を連結するテラス、ベランダ等がどうしても川の上に飛び出してしまい、河川法違反ということになってしまったことに対して、「…その代わり、ここで学ぶ子供が、こんな美しい環境で勉強できたことを思い出し、心が清められるのであれば、私の罪ぐらいは償える」と押し通したというのである。そこでの建築の「思想」は、学校は全ての人々の舞台=人生劇場であり、一つの街、人の住む街の原型だということであろう。「廊下は道、昇降口ホールは人の集まる広場、廊下を歩いていて変化に富んだ風景が発見できること、中庭に降りて楽しめる、力を合わせて助け合う、心で身で覚える場にしたい」という。また、「泥臭い、鈍感な、冴えない、船ならば櫓の竜がきしむ、花ならば徳利に挿してよく似合う」そういう建築家でありたいとも言っておられた。市役所を辞め松山に事務所を構えて30数年、専ら松山を中心に設計活動を続けてこられただけに、中央から営業的に進出してくる建築家には痛烈な批判をされる一方、優れた建築は大歓迎とも言っておられた。
職能団体の活動に対しても何かと気を使われ、請われればJAAの大会やセミナーでも、あるいはJlAになってからも、何回かの講演会に積極的に参加されていた。
何かいろいろな思い出を込めて比較的長いお手紙を戴いたのが1992年の暮であった。急逝されたのはその翌年、誠に惜しまれてならず、感慨無量であった。
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