JIAの建築家達 閉じる

海老原一郎 (1905年生まれ、1990年逝去、享年84歳。)
  海老原一郎を、この欄で取り上げることにはためらいを感じてきた。何故なら、海老原は、JAAが解散し、JIAが設立されたとき、その会員になることを頑として拒否したからである。間違って、というより当然のように海老原一郎の名前も印刷されたその「名簿」の刷り直しさえ、電話で求めてきたのである。何故か。それは後にする。しかしとにかく、わが国の近代建築の歴史の上で一つの足跡を残し、JAAの会長にもなった海老原を、遅まきながらも取り上げないわけにはいかない。
日本の近代建築の歴史の上で海老原一郎といえば、まず思い出されるのは、大正9年結成の「分離派」に続いて大正12年に結成された「創宇社」の同人として活躍したことである。まだ学生として芸大(東京美術学校)に籍を置きながら、昭和4年の創宇社第6回展、第7回展、そして昭和5年の第8回展まで、労働診療所、労働者アパートメント、消費組合食堂などの作品を出品している。
昭和5年芸大を卒業と同時に、石本建築事務所に入っての建築家としての修行の後、昭和13年海老原建築事務所として独立したのであるから、我が国における純粋な建築家の一人であったといえよう。戦後は、1958年実施の「尾崎記念館」(現在の「憲政記念館」)のコンペに一等当選を果たしたほか、1960年代のPSコンクリート外壁の「日本バイリーン滋賀工場」や小品ながらも折版屋根構造の「大日製罐板橋工場」などが思い出される。今でも時々うかがうことのある佐倉の「川村記念美術館」は最晩年の秀作である。
海老原さんが、JAA会長になられたのは、JAAに対する「公取委」の審判が開始された1976年からの4年間の最も厳しい時期であった。「建築家の灯を消すな」と叫び続けながらも、会長としてその時期を乗り切っていくには海老原さんはあまりにも温厚でありすぎたのだ。「優柔不断」とさえ陰口を囁かれながら、会長を辞めた後のいわゆる「第二国立劇場問題」での圓堂政嘉グループからの批判は頂点に達し、海老原さんは嫌気が差したのではないのか。それにJAAを解散にまで追い込むとは!! それが入会拒否の理由であったかは推量の域を出ない。  
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