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建築家資格制度における職能と職域の関係について

西部 明郎

コロンブスの卵を求めて
 1991年7月、『JIA news』に「敢えてタブーを冒して提起する」と題した論文を発表してから、足掛け10年の歳月が流れた。未熟な理論構成で先輩諸氏よりのお叱りを受けたいわゆる西部論文である。当時、建築家資格制度を構築する上で避けて通れない職能と職域との関係を解明しなければならない今日有るを予測したわけではなかったが、専業とそうでない二種類の建築家があるという前提で論じたという点だけは一つの先見性があったと自負している。さて近畿支部の資格制度は参加資格をJIA内部に限定しているため当面この議論は棚上げすることができると思っていたが、国際推奨基準に合致した枠組みを目指して近畿支部実務訓練要綱を構築する上でこの問題をどう扱うかを考えねばならないことになった。本部の資格問題推進協議会実務訓練委員会においても要綱案を作成することが決定したので同じ問題が論議されるものと思われる。そこで建築家の職能と職域との関係について考える上での一つのモデルを提案したい。
職能と職域の関係を論じるためには、先に建築家職能を定義しておかなければ議論にならないという考え方と、建築家職能は職域との相関関係において定義すべきであるという考え方とがある。従来の議論はどちらかと言えば前者の立場でなされ、建築家職能の根幹に「利益の衝突」問題を据えていた。結果として設計施工一貫方式の職場では論理的に建築家職能を全う出来ない以上、所属する建築士を建築家とは認められないとして来た。一方、後者の立場に立てばどうか。職域によって職能に対する解釈が異なっていては、様々な職域を横断的にカバーする資格制度を構築できないので「利益の衝突」のような典型的なハードルは除外しなければならない。その結果、この方式による建築家職能の定義は極めて倫理色の薄いものとならざるを得ない。日本の現状を踏まえて建築家資格制度を構築する上での最大の障害はまさにこの部分にある。
つまり、建築家資格を職域に関係なく認めようと言いながら、前者の考え方ではそれが成り立たず、後者の考え方では建築家らしからぬ建築家しか定義できないというジレンマに陥ることとなる。そこで発想の転換を図り、「利益の衝突」問題を建築家職能の中心に置きながら同時に職域による制約と両立させる必要がある。そのようなことが果たして可能なのかを考察してようやく到達した最初の認識は、個人が建築家の資格を持っていても職域によっては様々な制約があり、常に建築家としての業務を十全に遂行できるとは限らないという現実である。そして二つ目の認識が建築家資格は建築家としての業務に従事していないからという理由で消滅するものではないという前提である。この二つの認識から導き出されるものがコロンブスの卵となる。曰く、建築家が「利益の衝突」を生じる職域で働く場合は建築家としての人格を100%表現できない場合がある。しかし、そのことによって建築家の倫理にもとる行為をしたとして非難されるべきではない。何故ならば、彼は建築家としての業務に従事していたのではないからである。逆に建築家が建築家としての業務に従事していたと客観的にみなされる状況で倫理上の過ちを冒したとすれば、彼はその責任を取らなければならない。如何にしてコロンブスの卵に辿り着いたか、以下にその模索の経緯を詳述する。
不毛の議論に終止符を打つ
設計施工一貫論に対する分離論の主張は「利害の衝突」から出発する。一般論として建築工事契約に基づく商行為においては建築主と施工者の何れかが得をすれば、他方が損をするという厳然たるバランスシートが存在する。建築主はコストパフォーマンスを最大限に高めるべく工事費を値切る。施工者は他社との競争に耐える価格で受注した上、なおかつ利益を得るようにコストを圧縮しようとする。結果として品質の低下を招く。すべては経済原則の通りである。それでも安い方を求める建築主は結果的にコストパフォーマンスを下げていることに気付かない。逆に工事費の割高を承知で有名ゼネコンに特命発注する建築主もいる。某社の設計施工というだけでテナントを集め易いとも聞く。こういうケースはいわばブランドを買っているのであり、十分な費用対効率を達成していると言える。もっと凄腕の建築主もいる。建築と設備の技術者を抱え、特命発注した物件の設計図書と積算内容を精査した上でギリギリの価格を押し付け、徹底的な工事監理によって品質を確保する。請負者をして請けて負けると嘆かせることになる。無知故に欠陥住宅を掴まされる大衆レベルから悪名高い請負苛めまで建築主も様々である。
片や設計、施工分離の場合はどうか。設計監理者は第三者的立場に立って公正な監理をしなければならないとされているが、建築主から報酬を得て設計監理を行う者が建築主が得をするように働くのは当たり前である。建築主が得をすれば施工者は損をする勘定になる。さらに設計監理業務の中には監理を通じて設計の詳細を確定して行くという重要な仕事がある。設計監理者には少しでもデザインを良くし品質をグレードアップしたいという本能的な願望があるため、コストを押さえて利益を計上したい施工者と熾烈な綱引きが行われる。設計監理者が常に勝つとは限らないが、要求が通った場合は結果的に建築主の利益となる。一般論として設計と施工が分離された場合は利益が少なくなるとして施工者が設計施工を歓迎するのは当然のことであり、そのことを裏返せば建築主にとって分離方式の方が得なはずである。但し、この理屈は一面的であり、しばしば設計監理者側の自己主張が強過ぎて建築主の意に添わぬ設計を押し付けられたとか、予算を大幅に超過した、工期が長引いたなどという苦情も発生する。
設計、施工の一貫方式、分離方式の双方に長所、短所があるので何れが良いかの議論を始めると水掛論になり勝ちで不毛の議論と言われる所以であるが、双方共に建築生産の方式として定着している現状では何れに軍配を挙げるかは建築主の選択に任せようというのが最終結論であるようだ。つまり一貫、分離論争は水掛論のまま両陣営がそれぞれのメリットを主張するに任せておけばよかったのであるが、ここに来て「国際推奨基準に合致する建築家資格制度」を構築する上で「建築家職能」と「利害の衝突」との関係について共通の認識を持ち、不毛の議論に終止符を打たなければ「建築家」そのものを定義できないという局面に突き当たることとなったのである。そこで合意のための叩き台として一つの提案をするのが本稿の主旨となる。
利益の衝突とJIAの排除規定
日本建築家協会における伝統的な考え方は「利益の衝突」が当然のこととして予想される施工業、材料メーカーに雇用される建築設計者は建築家として認めないというものであり、会員資格を厳しく制限してきたのは周知の通りである。日本建築家協会は建築家として協会が認める者のみが加入できる組織であり、協会が建築家として認めない者は加入できないものとされている。では施工業、材料メーカーに雇用される建築士に対する排除規定が実際にはどのように構成されているのか、改めて定款、会員規則、倫理綱領及び行動規範、建築家職能原則五項目について確認してみる。
まず定款であるが、第6条(1)正会員で建築家について「別に定める基準」を満たしたものとしている他、「職能理念と自立的精神に基づき…云々」という抽象的表現があるのみである。「別に定める基準」の第一は会員規則における正会員の資格(1)、(2)、(3)で、これらは主として設計事務所以外の職域にある専門職への資格範囲の拡張であり、施工業、材料メーカーに所属する建築士を排除する具体的な文言は見当たらない。第二が倫理綱領及び行動規範で会員は、「自己の独立の立場に疑問を持たれる利害関係があるとみなされる組織を営まず、またその組織に属さない」という極めて具体的に書かれた条項である。第三に建築家職能原則五項目の3項で、抽象的表現の「自由と独立」について具体的な解説が試みられている。
ところが問題はこの倫理綱領及び行動規範が日本建築家協会設立後1年後の総会で可決されているという事実である。建築家職能原則五項目はさらに1年後の制定であり、会員規則に至ってはそのもう1年後の制定である。つまり、設立当初は具体的な排除規定を持たぬままに、排除規定があるかのように会員の選別が行われたことになる。これは実に驚くべき事実であって設立当時の会員意識が排除規定を自明の理としていたことを物語るものである。付属の諸規定が整備される以前に施工業、材料メーカーに所属する建築士より入会のアピールがあったとしたら定款だけで対抗できたであろうか。いずれにせよ定款には十分な排除規定がないという事実、したがって会員資格から排除規定を削除することが定款変更なしで可能であることに留意したい。
今になって定款をはじめとする諸規定を熟読してみると、会員が自明の理として使ってきた言葉の多くが、実に曖昧な根拠を持たない用語であることに気付いて驚く。何よりも建築家という用語が未定義である。職能理念、自立的精神にしても然り、確固とした建築家資格制度に基づく建築家協会であれば、すべての用語を明確に定義できるはずである。したがって建築家という用語が定義されぬままに設立された日本建築家協会という団体を建築家の団体と称し、この団体の会員であることが建築家の証であるという理論には問題がある。
建築家と建築家業務
安土城は信長が建てた、大阪城は秀吉が建てた、こういう言い方は別に建築家軽視の表れではない。外国でも似たようなもので権力者が権威を象徴するために建てた建築はその権力者が建てたと言われるのは極めて当たり前のことである。宗教建築であっても、商業建築であっても同じことで、建築は建築主によって建てられるものである。建築家は建築主のために設計監理を通じてサービスを提供しただけの存在であり、施工者は建築主のために工事をしただけの存在に過ぎない。建築家も施工者も建築主の意志に従って与えられた役割を果たしただけであり、建築は建築主の意志が形となって残ったものである。この基本的なことを忘れて建築家の職能を語ることはできない。したがって建築家の職能は建築主の意志を具現化することであり、独立した建築家であろうとゼネコン・インハウスの建築家であろうと同じである。このことと設計施工一貫方式下における「利益の衝突」とがどういう関係にあるかを考えてみる。
称号あるいは資格としての「建築家」は個人に帰属するものであり、個人の属する職域の種別によって適格性を左右されるべきではないという考え方が国際的な傾向である。日本の建築家資格においてもこの考え方が取り入れられるであろう。しかし、このことと建築家としての業務が、何れの職域においても遂行できるかという問題とは切り離して考えなければいけない。建築主と施工者の関係は一方が得をすればもう一方が損をする関係である。これをConflict of Interests(利益の衝突)と呼ぶが、そのような職場に所属する建築家はクライアントへの忠誠よりも、所属する企業への忠誠を要求される。あくまでも建築家としての義務を果たすためには職を賭けなければならない。では、そのような建築家には建築家の資格がないかと言えば、所定の実務訓練と試験を経て獲得した個人の建築家資格が失われることはなく、特定の職域によっては建築家としての業務を100%遂行することができないこともあるというだけである。さらに、その企業に所属している期間の全てにわたって建築家の業務ができないわけではない。その企業が設計と監理だけを行い施工を別の企業が引き受ける場合もあれば、個人の資格で建築家業務を行う場合もあり得る。施工者自体が発注者の場合は建築家業務はより完全な形に近くなる。
業務発注の形態が多様化している現代においては、古典的な建築主、建築家、施工者という図式が当てはまらない形が続発している。施工会社、材料メーカーに雇われている建築家という形態があり得るということを確認し、同時に建築家資格者であっても建築家業務を遂行できない場合があるということを確認することで、新しい時代の建築家像と建築家職能が再構築できるであろう。結論を急げば典型的な建築家の業務は施工会社、材料メーカーから独立した形で遂行される場合がモデルケースであり、建築家資格制度で定義される建築家のイメージも同様である。「利益の衝突」を生ずる可能性のあるゼネコン・インハウスの建築家は特殊な例として解釈すべきであり、彼らはたまたま雇用関係による制約によって建築家業務を100%遂行できない場合が多い職場にいると解釈すべきである。建築家業務を遂行できないからと言って建築家の資格がないとする主張は、今後の建築家資格制度をめぐっての議論では禁句としたい。
職業建築家
「建築家」を個人の資格とし職域の如何と関係のないものとした場合の呼称上の問題について考えてみたい。建築設計事務所に勤務したり自営する建築家は建築設計監理という建築家業務を営むことで生計を立てている。一方でゼネコン設計部勤務の建築家は建築設計事務所に勤務する者と同じように建築設計に従事することで給料を得ているとは言うものの、所属している組織が施工業務によって大部分の売上を計上している以上、本質的には施工業務によって生計を立てていると言わざるを得ない。所詮、売上上の比率の問題である。まして「利益の衝突」から建築家業務を100%遂行できない立場にある以上、独立している建築家と同じ呼称で建築家と呼ぶのはおかしいという気持ちが拭い切れない。両者を区別する方法として「利益の衝突」を生む可能性のある職域に所属する者を建築家と認めないという議論も根元は同じである。このような乱暴な割り切り方に代わるものとして専業の建築家を職業建築家と呼んではどうであろうか。英語に直せばプロフェッショナル・アーキテクトである。戦前の職業軍人という言葉を連想して奇異に感じる人があるかも知れないが、職業軍人という言葉は軍人を職業にする者は生命まで犠牲にする覚悟があるという職業倫理を秘めている最高のプロフェッショナリズムを意味する言葉である。職業建築家もその名に相応しい建築家倫理の裏付けを意味するものとなればよいと思う。旧西部論文で主張したJIAの会員資格をゼネコン所属の建築家に開放してはどうか、という提案はここに来てようやく議論の対象にできるようだ。JIAが関わって創られる建築家資格制度で認められた建築家をJIAが認めないのは矛盾するので、制度誕生によってゼネコン・インハウスの建築家が生まれることになる。その人たちをJIA会員に迎えるか否かは、JIAをどういう団体にするかにかかっている。JIAをここで言う職業建築家の団体であるとするなら現状のままでよい。そうではなく登録建築家の団体とするなら会員資格を変えて窓口を広げることになる。どちらを選択するかは大変大きな問題なので一朝一夕で結論の出るものではない。今から時間をかけてじっくり考えるべき課題である。
建築家の実務訓練
国際推奨基準による建築家の定義には専業、兼業の区別はない。しかし、これは専業、兼業を平等に扱うというよりは、建築家と言えば専業の建築家であるのが当たり前の世界で、わざわざ特殊例である兼業建築家のことに言及する必要がないからに過ぎない。日本でも建築家資格制度においては建築設計監理並びにその延長上にある各種コンサルタント業務によって生計を立てている、言い方を変えればそれのみを独立した職業としている前節で言う職業建築家を典型的な建築家像として描くのが自然である。建築家職能もその上に立って議論されるべきであろう。
ここで考えなければならない大きな問題は、建築家像をこのような形で定義した場合に実務訓練をどう扱うかである。つまり典型的な建築家に求められる倫理教育や事務所運営に関わる教育を日常的に必要としない職域では学ぶことができないのではないか、そのような職域にはそのような教育のできる指導者がいないのではないか、例えば所定の学校教育を修了しゼネコンに就職した場合に建築家資格が取得できないのではないかという問題である。実際問題としては多くの建築家志望者がそのような職域で活動するはずである。ゼネコン設計部に限らず、教育機関、官庁営繕、メーカーなどに所属する建築家志望者は建築家資格制度に定義された建築家業務の全てを経験できない可能性がある。独立した建築設計事務所ですら特定業務に特化して部分的な業務しか行わないケースがある。この現実を認めることから全ては始まると言ってよい。ゼネコン設計部でも金融機関不動産部でも建築家教育ができなければおかしいという誤った前提で建築家資格制度を議論してはいけない。本来、建築家教育は職業建築家の事務所でしか行い得ない性質のものであり、仮にそれをゼネコン設計部や金融機関不動産部で行おうとしたら何が不足するのかをチェックすることから始めなければならない。
この問題を解決する最善の方法は医師のインターンが大学付属病院や大病院で行われているように、建築家のインターンも専業の事務所で行い資格取得後改めて本格的に就職する慣習が育つことである。しかし現実の問題としては建築家志望者と訓練に適した事務所の数的バランスを一致させることは困難なものと思われるので次善の策としてJIA本部で研究されているプロフェッショナルスクールの展開による方法が考えられる。これは倫理教育や事務所運営に関わる教育に必要な時間数が設計監理実務の習熟に必要な時間数に比べて少ない点に着目し、短期間の集中講座によって必要な単位を取得できるようなシステムを提供してはどうかという私案である。但し、この解決方法は次善の策とはいえ、短期間の集中講座で建築家として欠かせない倫理教育が徹底できるかという疑問を解消できない。もともと建築家倫理は一朝一夕で体得できるものではなく、長い時間をかけて指導者となる建築家の生き様に接することにより第二の習性として体得するものである。逆説的な言い方をすれば指導建築家を時には反面教師としなければいけない局面も考えられる。職業建築家といえども経営者としては建築家倫理にもとる行動を選択せざるを得ない場合があるからである。しかし、そのような場合でも日常の姿勢が建築家らしいものであるならば、そのような苦渋の決断に悩む姿を間近に見ることによって建築家倫理の本質は伝えられるであろう。短期集中講座でそこまでの教育は期待できない。建築家教育は職業建築家の事務所で行われるべきであるという議論の論拠はこの点にある。建築家志望者に対するインターンシップの在り方については、むしろこれから議論を重ね教育カリキュラムを含めて研究される必要がある。プロフェッショナルスクールは窮余の策として考えられるだけで本当は建築家教育の原点に立って考えなければならない問題である。
一方で設計監理実務の一部を肩代わりするシステムは時間的に短期集中講座では無理なので国内留学や交換留学などの方式を研究する必要がある。これは建築設計事務所のあり方を根底から改めなければ実現できそうにない大きな課題である。
結び
以上、建築家資格制度における職能と職域の関係について考察を重ねて来た。第三者認定方式の場合はもちろん、自主認定方式であっても早晩、職域による排除規定は撤廃することになるであろう。建築家とは何か、建築家の業務とは何か、建築家の職能とは何か、それらの全てを定義できる建築家資格制度とは何かについて考えた一つのモデルである。中身は伝統的な職能に対する考え方を生かしたまま、職域による建築家業務の限界を積極的に探って行こうとするものに過ぎない。そこがコロンブスの卵たる所以である。
諸兄よりの忌憚なきご意見を承りたい。
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