専業の建築家集団を核として
幸せなことに今では「土佐派の家」として知られるようになった特徴的な作風の住宅群をつくっている、その主体は専業の建築家集団である。これは家協会の高知地域会とも言うことができるが、実は多くの会員は重なって入会しているのではあるが、高知地域会とは別のもっと歴史の古い、もう40周年を迎えたほどの実績がある(社)高知県建築設計監理協会という組織の中の一つの委員会、「土佐派の家委員会」に所属する人達の活動である。
メンバーは約30人程が登録されているがアクティブな人はその半数である。建築活動であるから初めに建築主として、作風に親しみを持ってくれる個人をはじめ、県・市町村などの公共団体、施工側として価値観を同じくする工務店や大工、左官をはじめとする職人群、木材の製材や土佐漆喰、土佐和紙のメーカーなどの資材供給者、更には、地元の新聞や放送などのジャーナリズムの方々といった、様々な関連する人々に支えられてこれは動いている。
主体を専業建築家に限定せず、関係者に広げて活動を大きくする方向も当然想定できるのであるが、この活動が始まって10年近くなるが今までの所は「委員会」だけが方向を決めることに留まっている。主な理由としては金儲けが上手ではない設計者集団が方向づけをしている方が営利に流れる恐れが少なく、拡大の速度は遅くて木材業界などにはじれったいかもしれないが、純度が保ちやすいのではないかということであろうか。
自立性の高い土佐らしい組織

東津野村舟戸団地
「土佐派の家」メンバー10名による各戸別設計型の公営住宅団地 |
協会に私が入会を許されたのは35年程前であったが、年会費は3万5千円で、現在の所得水準でみると30万円を超える程で、新米の事務所にしては大きな負担を感じたことを憶えている。現在でも一部有力事務所は年会費が30万円前後になる会費制度になっていて、メーカーなどによるいわゆる賛助会員制度はとっていない。今までに財政の苦しいときに何度も話題に上ったことはあるが、いつも否定されて、専業者としての自立性を重んじてきている。
高知のような辺境の土地に40年も前にどうして職能意識に目ざめた組織が育っていたか、また能力に応じて会費を負担しようという営利を越えた意織を持ったグループが芽生えたか、疑問に思われる向きがあるかも知れない。「自由は土佐の山間より出づ」と言われるように明治維新前後からの土佐人の意織には理想主義的な一面があったかも知れない。しかし、もう一つには組織の立ち上げに参画した中心的な人物に、一時は四国一の大きさになった設計事務所をつくったMA設計の所長、中屋弘氏がいたが、氏の存在が大きな流れをつくっているように思う。建築学の出身ではなく専門は冶金であったが、高知酒造会館という建築の設計施工を施主側の担当者として経験し、その間にその設計をされた前川國男先生の人格に深く影響される体験をする。それをきっかけに建築の設計事務所を開設し、運営することとなったと言われている。
大きな事務所(一時は50人を越える)を維持するためには清濁併せ呑むところがあったと思うが、仕事の受注業績を加味した業績会費制度を提案実施し、自ら年間100万円を超える会費を負担するような状況になっていたにもかかわらず会の運営は必ずしも大きな事務所の思い通りには行かなくて、苦虫をつぶす思いもしておられたように見受けられた。そんな中で、外部のメーカーなどを賛助会員にしようとする空気は常に否定されていた。土佐人らしいヤセ我慢ではあろうが、それだけに社会的評価は高くなっているのではないかと思っている。
「土佐派の家」の条件は三つ
土佐派の家と呼ばれるためには今のところ、次の三つの条件を満たすものであることが合意されている。もっと細かい条件も提案されようとしたこともあったが、そこは土佐人で、たちまち異論が噴出してまとまりがつかない恐れが出てきて、三つだけに控えられている。一つは、地場の産出する優れた素材を使うこと。二つには、地場の職人の手によって施工すること。三つには、昔ながらの家ではなく現代の生活感覚に合ったものとすることである。特に資材の点では藩政時代には優れたものが産出され、他藩にも移出されていた地域の恵み、土佐(木)材、土佐漆喰、土佐和紙がある。
この三つの素材を使って造られる家々は伝統の家並みに近く、旧い街並みと一体になって新旧連続した美しさをつくりやすいのである。ところで「土佐派」という呼び名がどうして出て来たかであるが、15年程前の話になる。高知県住宅供給公社が自ら造成した土地に自前の設計による住宅を建てて、いわゆる売建て方式で分譲事業を行ってきていたのであったが、当時の県の施策として、手持ちの設計メニューを増やそうと、公社の設計メニューの他に、設計コンペによって広く民間から設計案を募集することになったことがある。
このコンペの入賞者の案については実施設計が委託されて設計メニューに加えられることになっていたが、魅力的な点が一つあった。それは上位入賞案については実際にモデル住宅として実物展示するというものであった。当時の高知の設計界の力のある若手がこぞって参加し、上田堯世現支部長の一位入賞をはじめ、7棟の住宅が建てられたのであった。
審査委員長は山下和正氏であったが、実現した建物のデザインは主として土佐の伝統的な様式を踏んだ風土の特色を色濃く写し、骨太ではあるが、しかしモダニズムの洗礼を通過した、現代に通じるデザインであった。これが当時「新建築 住宅特集」誌に紹介されて、建築史家の村松貞次郎教授が、月評欄で取り上げて下さり、土佐っぽの表現は鰹のタタキのように生きがよく、身切れが厚いとほめて下さったのである。更にそれに続く同誌での土佐の住宅をやはり月評で「土佐派」の仕事として、同年1987年が国際居住年であったが、日本から胸を張って出品できるのはこのような仕事ではないかと評価して下さったのであった。※1
そのことを我々は憶えていて、後に(約7年後の1994年ごろ)この土佐産材を生かした家を都会にも売り出したらどうかという計画が上田堯世会長のもとで(社)高知県建築設計監理協会の事業として持ち上がって、この動きの特徴を表す本を先ず作ろうということになったとき、本の名前を「土佐派の家」※2 としたのであった。
高知に帰る
個人的なことも混ぜて話をさせて頂くことになるが、私は1964年頃まで東京の市浦健先生の事務所で5年ほどお世話になり、主に公的な共同住宅の設計を経験する機会をいただいた。当時の住宅公団や建設省から委託されたRC造の共同住宅の標準設計が多かった。私はここで多くのものをそれほど意織しないで体験したように思うが、今から考えるといつも庶民的で、標準的で、誰が考えても無難な答えを求められていた。当時の私としてはもう少し前衛的な造形や感性にひびく素材の取り扱いをしたいという不満は少しあったのであるが、結果的にはこれまでで三十数年間、独立して自分の責任でデザインをするようになってみると、不満だったことは忘れて基本的に地道で、標準的で、庶民的な選択をする傾向が身にしみてしまっているように思う。やがて私は体調を損なって田舎でのんびりやりたいと思う気持ちが勝ってきて、高知に帰ることになった。
雨が下から降る
高知はよく知られているように台風銀座と言われる土地柄であり、松山市や東京などと比べると夏の月平均相対湿度は10%程高い多湿の国である。例えば鉄筋コンクリート造の学校の廊下や階段に雑巾バケツをひっくり返したのではないかと疑われるほどの結露が春先や梅雨時に見られたり、1970年の10号台風では住宅やビルのアルミサッシが軒並みに破られたりして、とても東京の標準仕様では対応できないことを知らされていた。
私も初めの数年間は台風の後の、新しく設計した建物の雨漏りの電話が恐ろしかったことであった。こんなことでは事務所が成り立たないと思い、昔からの土着の家々を注目しはじめることになる。モルタル塗り、ビニルタイル張り、ビニルペンキ塗りなど当時主流の新しい建材が結露しやすいのに比べて、三和土、漆喰、板の床が水をよく含み、息をする素材で、結露に対して圧倒的に有利な素材であることに目を見張ることになる。
台風時の雨漏りについてはどうか。古い文化財などになる民家の調査や改修工事を手がけることがあるが、伝統的な優れた建築でも、雨漏りの跡が必ずどっかにあったりして、現代に生きる我々としてはむしろニンマリしたりすることが多い。しかし、雨の激しい地域の民家はそれなりに風向きを考えて、桟瓦の山の位置を2種類つくって強い雨風が吹き込みにくくしたり、土佐漆喰の大壁で塗り篭めたり、木製の蔀パネルを外壁に張るときに空間を空けて(等圧空間)雨水を外に戻したりしている。
開口部についても同様で、その昔は雨戸の外側にヤマトと呼ぶ雨戸を軒桁に立てかけており、ガラスが使われるようになってからは、雨戸とガラス戸とでダブルスキンを作るようにしてきている。高知では雨が下から降ると言われたり、壁面を雨が這い上がると言われたりしている。
このような風土との対応を帰ってきた私は迫られることになるが、中央で建築の実務の経験をして、高知に帰ってきた人々はみんな似たような問題に直面することになったかと思う。中央での知識や経験が必ずしも役に立たない。問題を共有する者としてもノウハウを交換したりして、次第に仲間意識が育って行ったことも考えられるのである。厳しい気象条件は見方を変えれば高知の建築家がグローバル化の嵐の中で生き残るための天の配剤かと感謝しているところである。
最後尾の地域経済
高知県の所得水準はいつも沖縄県や島根県などと共に最後尾に連なっている。そういう土地柄では、近代建築の素材が仮に優れたものであっても高価で負担が重く感じられるので、できれば地場産材を利用する道を考えている。この有効な利用方法が見つかれば、他の先進県にもこの産材や製品が売れることが期待されるところである。
風土の条件から伝統の建築素材である土佐材、土佐漆喰、土佐和紙などの採用を考えはじめると、これは地域経済にもプラスに傾くことになる。いつだったか、もう十数年前にダイムラーベンツ社が「ドイツには鉄がある。だからベンツを造った」というような意味の新聞一ページの大きな広告を出していたのを憶えているが、ベンツ車一台にしめる鉄材の価格はわずかであろうと思う。
しかし、わずかであっても車に仕上げるまでに関連の産業が育ち、多くの人が誇りをもって暮らすことになる。高知にはスギ・ヒノキがある。だから「土佐派の家」をつくったと行きたいものだと思うのである。豊富な森林資源を持つ高知県では、橋本大二郎知事の施策のなかに、「木の文化県」を薦める事業があり、「土佐派の家」の活動もこれに助けられて始まったし、従来なら鉄骨造にしていた体育館や格技場を木造で設計したり、木造三階建ての県営共同住宅も実現している。また、非木造として計画されそうな計画案を木造で計画するとどのようなものが考えられるかという設計提案をする仕事、つまり木造化提案を毎年数百万円の予算で設計監理協会が受託し、「土佐派の家」委員会のメンバーが分担して対応している。
100年持つ家
「土佐派の家」委員会が発足してまもなく「土佐派の家」という本を出版したが、その本には-100年住むために-という副題がついている。先に話に出たように、高知は厳しい気象条件であり、貧しい経済力しかない土地柄であるのに、伝統的な工法で建てられた100年を越える家が農家とはいわず、商家とはいわず、あちこちでいくらでも実例が残っている。
私自身も既に90年を少し越える家で生まれ、現にそこに住んでいる。余談ではあるがこの原稿は今その生まれた部屋で書いている。その間にどのような条件がこの家に刺激を与えてきたかということを、自分の家であるから、物心づいてからでももう60年も生きてきたので、詳にその対応を観察し、また自ら係わってきている。家族構成は最初に自らその家を建てながら移り住んだ若夫婦(祖父母)から数えると、私の孫まで5代目にわたっている。先ず、複雑な家族構成員を包容してきた家は融通性のある間取りである。次に90年の間には板ガラスが普及して窓や開口部が改修されたこと、更に風呂や炊事用の燃料が当初の薪から、灯油、ガス、電気へと激しく変わったこと。農業をやめて、農作業関連部が不要になり、その半分は土足で土間の生活であったものが、全部上足になったこと、最後に瓦屋根の葺替えや、外壁の補修など激変に耐えて生き残っている。近辺にある100年を越える家はみんな似たような厳しい風土と社会的激変に耐えて生き残っているということができる。
「土佐派の家」の手法が土着の伝統の手法にこだわるのは、この手法にはこの風土のもとでの立派な実績があり、目の前の現実が証明しているからであると考えている。それに比べると新建材を多用した一見合理的でローコストな家は、効能は認められるが、未だ人体実験を終わっていない新薬を、いきなり生身の治療に使ってしまうような危なさがあるとは言えないだろうか。※3 ※4
環境問題は別の委員会で分担している
近代化が未だそんなに進んでいない100年前の我が国の伝統の軸組工法を教師にしている「土佐派の家」では、最近問題が顕在化している環境問題に比較的楽に対応することができている。自然の木材を使うので省エネルギーであり、天然木を温存して人間が植林して育てている造林木のスギ・ヒノキを使うので省資源である。自然の素材が中心であり解体移築もできるのでゴミ処理の際に環境に負担を余りかけない。
化学毒物を使わなかった時代の工法であるので、アルデヒドなどの薬物や、防腐剤に頼らなくても工法として十分に成立する。
「土佐派の家」のメンバーとしては今日のように環境問題が顕在化する以前から、レイチェルカーソンの「沈黙の春」、ローマクラブの「成長の限界」、更にはCO2による「地球温暖化の予告」など数十年前から課題として予告されている問題であったので、工法の選択に当たってはこのような情報を折り込んで来たと思うし、会員の集まりには話題に上っていたところであった。しかし身近な具体的な問題として、白蟻対策などに薬剤を使用するかどうかという点について言えば、つい数年前までは財産の保全を優先する人が多かったが、今では住む人の健康を優先して薬を使わない人が多くなって来ている。
環境問題、中でも薬物と健康の問題については化学的な勉強が必要であり、CO2の発生量の問題について、特にLCCO2の発生については熱力学を含め多様な勉強を求められる。そこで「土佐派の家」委員会とは別に、環境委員会を立ち上げて、勉強会や一般消費者への働きかけ、また県などの専門機関との情報交流の窓口として活動している。そのような活動のなかで、「土佐派の家」を含む新築住宅のVOC測定のデーターを取ったことがあるが、当然の結果とはいえやはり「土佐派の家」仕様の2棟については外のサンプル数件よりケタ違いの数値を示し、みごとに問題をクリアしていた実例を得て、共に自信を深めているところである。※5
大事なものは桐の箱に、大事なひとは杉の家に
柱梁の伝統軸組工法は、我が国の森林資源状況に立脚して、多湿な風土にマッチした工法として、また方眼紙に間取りを書いて、建主が専門家と一緒になって設計に参加することもでき、軽く100年の寿命をクリアし、解体移築して、いくらでも永く使うことができるなど、世界に冠たる建築システムとしてみごとに洗練されたものと言うことができると思う。
「土佐派の家」では言うまでもなく、天然木は温存して使わず、造林木を使って家を建てている。同じ造林木でも、節のあるものと節のない無地では大ざっぱに10倍の価格差があるが、「土佐派の家」はその安価な節のある木材を隠さないでインテリアに骨組みを見せて使っているのが特徴になっている。
我々が理想としている100年前に建てられた伝統工法の家は、表座敷廻りは天然木の無地材が使われいた。その部分についても「土佐派の家」では節のある柱を使っているので一般の人の評判は余り良くない。木のことに知識のある老人には特に良くない。評価する人は十人に一人くらいの割合かなと思う。であるから、ハウスメーカーなどでは、表面に薄いツキ板を貼ったり、外材を使ったり、新建材で覆ってしまって骨組みを隠して使うのが一般的な手法になっている。「土佐派の家」があえて節のある木材を見せようとするのはこの力強さを見せたいし、大工の手の跡を楽しみ、安全性を確かめたいからである。また、厚みのある木材は夏のジメジメ、冬のカラカラの空気を柔らかくして温湿度を安定してくれるし、木の香りや音の響きも新建材では得られない本物である。
高知では主にスギとヒノキの造林木が県外に売らなければならないほどに多量にあって、間伐されるのを待っている。「近くの山の木で家を建てる運動」が最近薦められるような時代になったが、高知ではそれ以上に遠くまで売りに行きたいほどの量がある国なのである。スギは構造材としてはバラツキがあり弱いが、一回り大きな断面にすれば十分に使えるし、製材時に強度の簡易測定をすることができ、注文をすればそのような強度のスギ材が手に入るところまで進んできている。スギをやむを得ず使うのではなく、胸を張って使うためにキャッチコピーを使っている。「大事なものは桐の箱に、大事なひとは杉の家に」である。杉は柔らかく桐に近い。その昔、高知では嫁入りタンスを桐で造れない庶民は杉のタンスを持って嫁入りした。私も現に祖母の杉の嫁入りタンスを衣装入れに使っているところである。
水ゴネ10年、糊ゴネ1年
左官が壁を塗るとき土のなかにツノマタなど海藻の糊を入れるとコテさばきが滑らかになり、水だけの仕事だと十年の修行をしたほどの成果が一年の修行をした者でも得られるということであり、よく耳にすることである。
土佐漆喰の特徴の一つは、外の地域の漆喰が糊ゴネであるのに比べて、水ゴネにこだわって使われていることがある。糊を混ぜないので、それだけ純粋な硬い炭酸カルシウムになり、強い雨風に耐えて100年を経てその真っ白さをを楽しむことができる。
土佐では我が国で最良質の白い石灰石が産出され、藩政時代から外に移出されて来ており、桂離宮など各地の文化財の修復に使われている。なぜ外の地方のように糊を入れないものが使われるかということだが、高知が雨風の強い土地柄で壁を這い上がる雨に対して本物しか受け付けなかったこともあると思うが、塩焼き灰と言って石灰を焼成するとき、岩塩を少し混ぜることで、粒度の荒い、コテさばきのよい消石灰ができると言われている。なにしろ石灰は骨や貝殻など造化の神が構造材として採用された素材であるので、何か本質的に優れたものを持ち合わせているように思うし、世界中至るところで古くから人間の住居に使われている。この白い壁が「土佐派の家」のシンボルであり、品格を支えていると思っている。
もう一つ「土佐漆喰」の特徴はスサに外の地域が漂白された麻などを使うのに比べて、醗酵させた稲ワラを使うことである。稲ワラの黄色い成分(ぢけ)が白い漆喰に卵色の色を付けるが、やがて10年くらいで真っ白になってその変化を楽しむことができる。柱の素木の色が黄色くなる頃、逆に漆喰の壁は白くなるのである。
絹500年、和紙1000年
伝統製法でつくられた土佐和紙は耐久性が優れている。現代では悲しいかな生産性を上げるための様々な合理化が1000年の寿命を縮めている。先ず楮の繊維をバラバラに細かくするために草木灰や消石灰で煮る作業があるが、効率を上げるために苛性ソーダーが使われる。しかしこれは耐久性を損なってしまう。また、白い紙にするために天日で晒すのであるが、塩素を使えば簡単に真っ白になる。だが、これでは白い鈍いツヤを失う。時には楮の中にパルプが混入されることがある。更に、伝統製法なら手漉きのスゲタの跡や、板干しの木目を楽しむことができるが、今では機械化されたものが多い。
このような色々な方法で和紙の生産性は上がり原価は数百分の一になる。しかし、寿命も数百分の一になり、住まいに使われて、強い湿気のなかでゆるむ和紙の湿気の文化としての味わいは失われてしまう。悲しいことか幸せなことか、我々設計者レベルではその「合理化」の跡を紙を見ただけでは十分に区別することはできない。何年か時を経てやがて違いがはっきりするものも多い。
最近はエコマークなど製品にマークを付けて製造責任を明らかにしているが、私もメーカー指定や、職人の指定をする事にしている。これはまた設計者の考える以上のことを期待できる方法でもある。ちょうどジャズのプレーヤーが、楽譜以上のことを演じる場面がある方が面白いのと同じことであろうと考えている。
文化を売る団体
高知の素材を使って高知の職人がつくる家を県外に売りに行こうとして始まった委員会ではあるが、細木茂現会長を初代委員長として松澤敏明現委員長まで5代、もう10年近くになっても今までのところ、県外には余り売れていない。なぜか。
ハウスメーカーのものに比べると高価に見える(寿命で割り算すると安いと言っているのだが)ことが一つ。節のある骨組みを室内に見せる民家風の、野性味のある雰囲気が必ずしも今の日本の多数派の好みに合うものではないかも知れないのが二つ目、三つ目には日頃の仕事を通して感じていることであるが高知では土着のものを評価する人は、外部から高知に来た人か、外に出て外の世界を知った上で高知を選んで帰ってきた人で、地元に生まれそのまま地元にずっと生活している人は、山の彼方や先進地にあこがれを感じていて、土着のものには必ずしも自信のある評価を下していないことがあると思われる。地元である程度の量的な流れに勢いが付かないと、県外に打って出る程ののエネルギーは育たないのだと考えている。そういうことで経済活動としては少々心細いので、文化を売ると言うことにしているのが実態である。
「土佐派の家」発足の時、当時の会長の上田堯世さんは、「文化を売ろう、これからは文化しか売れない。」と言ってこれが量的に売れることに疑念を持つ会員を元気づけられたことがあったが、今では文化として広く知られるようになっているので、第一段階としては満足すべきものではないかと考えている。※6
「土佐派の家」の手法は、本来強い価格競争力を宿していると私は内心思っているが、価格の問題は専業者の集まりで議論をしていても限界があるので、工務店や職人、資材業者と一体になって取り組むべきではないかという当然の意見もある。いずれにしても育児や生活が経済を越えた営みである以上、家づくりも経済を越えた意織で係わる、そのような職人や建築家に支えられた営みとしてでなければハウスメーカーとの価格競争の戦場で生き残る道はないように思う。
文化を売ると言いながら「土着の家」をつくったり、30万円を越える会費を負担しながらニコニコして集まっているそれほど若くない人達、体験的に一人ではできないこともグループになればできると信頼している。私はお布施を多く出すほど御利益も大きいと冗談を言いはじめている。宗教団体としか考えられないと言いはじめているところである。組織としては余り力まないで、文化的に静かに生き残りたいものだと思っている。ジョン・レノンではないが、想い浮かべてごらん、簡単なことだよ、GNPで測らなければいいんだよ、そうすれば土佐は世界の中心になるんだよ。
※1 新建築住宅特集 1986年11月/1986年12月
1987年2月/1987年3月
※2 ダイヤモンド社
土佐派の家 「100年住むために」
PART「技と恵」
※3 建築士 1997年7?9月 山本長水
「100年以上快適に住まえる家」(1)(2)(3)
※4 建築士 1998年3?5月 山本恭弘
「100年以上快適に住まえる家」(7)(8)(9)
※5 NEWS 設監こうち(会報)2000年11月
「健康住宅と室内の化学物質について」
※6 住宅と木材
(財団法人日本住宅・木材技術センター 会報)2000年3月「大事な人はスギの家に」
ここでは各メンバーのこれまでにジャーナリズムに登場した「土佐派の家」関連記事がほぼ全てリストアップされている
写真撮影
熊谷邸・偉人の家/山本長水
東津野村舟戸団地・県営住宅十市団地木造棟3階建/西森秀一