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2004年度JIA新人賞

審査員: 池原義郎 / 六鹿正治 / 坂本 昭 

受賞作品 : 伊達の援護寮  


藤本 壮介


藤本 壮介(ふじもと・そうすけ)

1971年 北海道生まれ
1994年 東京大学工学部建築学科卒業
2000年 藤本壮介建築設計事務所設立
現在、東京理科大学、昭和女子大学非常勤講師

受賞暦
2004年 JIA新人賞 「伊達の援護寮」
2004年 北海道赤レンガ建築賞 奨励賞 「伊達の援護寮」
2003年 安中環境アートフォーラム国際設計競技  最優秀賞
2002年 邑楽町役場設計競技 佳作
2000年 青森県立美術館設計競技 優秀賞
1995、1997、2000〜2003年 SDレビュー入選


伊達の援護寮
外観 写真;畑 拓(彰国社)
伊達の援護寮
内観 写真;藤本壮介建築設計事務所

「Space of no Intention」
藤本壮介

■「部分の建築」
  3年前、「部分の建築」という文章を発表した。
  部分の建築とは、建築を、大きな秩序、外側からの秩序によってではなく、部分と部分の関係性という小さな秩序の連なりによって、内側から作っていくことができるのではないか、という提案である。そして近代というものが、大きな秩序からものを作る時代だったとすれば、この「部分の建築」は、真の意味で近代に取って代わる価値観になりえるのではないか、ということを提案した。
  ここで一つ確認しておきたいのは、「部分」というのは、決して「部品=パーツ」ではないということだ。単なる部品を組み合わせていくというのは、それは機械であり、つまり近代であろう。部品を組み立てるためには、その上位概念として部品を配置するための大きな秩序が必要である。そうではなくて、ここでいう「部分」は、局所的な部分と部分の関係性のことであり、その関係性自体のなかから小さな秩序が立ち現れてくるのである。

■居場所ということ
  今回、北海道に援護寮という建物が竣工した。
  海に開けた緩やかな南西向きの傾斜地という恵まれた敷地に建つこの建築は、精神障害者の方々が、自分の生活を行い地域社会に溶け込んでいくのを支援する施設である。とはいっても決して特殊な建築ではなく、むしろ20人の入居者各人にとっての落ち着きのある「家」であると同時に、そこで日常的に暮らす上での多様さと意外性をそなえた「都市」的な場所であるという、根源的な両義性が求められた。
  これは、ある意味では「居場所の建築」である。いろいろな性格の居場所を連ねていくことで全体が成立している。5.4m角のブロックが角で接しながらさまざまな角度で連なっていくことで、その隙間や突き当たりに、さまざまなスケールの場所が生まれる。街に例えるなら、まず大通りを作って大きな広場を作り、みんながそこに集まるのではなく、小さな路地をつなげて、その曲がり角ごとに小さな居場所を設けていった感じである。そうすることで家のような落ち着いたスケールと都市的な多様性が両立する。
  ここで、それぞれの居場所=部分と考えるのは少し違う気がする。むしろ、「それぞれの居場所どうしの関係性」=部分、と捉えるべきだろう。上で書いたとおり、パーツには、それを配置する大きな秩序が必要である。一方でここでは、それぞれの居場所を部品として単独で取り出して語ることはあまり意味がない。それらは隣接する場所との関係の中で、初めて居場所としての多様な性格を獲得するのである。

 先ほどから僕は「部屋」ではなくて「居場所」という言葉を使っている。
  なにかが単独で取り出せないときには「部屋」という完結したパーツを前提とするよりも、「居場所」という、ある種あいまいで、関係性の中からしか定義できない場所がよりふさわしいのではないかと思えるのだ。カーンは自身の建築の根源を「ルーム」といったが、そこからさらにさかのぼって、僕は「居場所」といってみようと思う。居場所は、明確な部屋である必要はない。それは他の居場所との関係によってのみ、ある性格を持つ。それゆえに、部分の建築においては、居場所というのは本質的なのである。取り出すことができないあいまいさをもちながら、人の活動の拠点としての確固たる場所であるということ。

■人が二人以上いる建築
  以前ある大学でレクチャーをしたあと、学生が書いたレポートを送ってもらったことがある。その中で、「藤本さんの建築は人が二人以上いるときにおもしろい建築だ」と書いてきた学生がいた。面白いので以後この言葉を使わせてもらっているのだが、この「人が二人いる建築」というのは、まさに関係性の建築であろう。それは個々の領域が分節されていて、しかし同時に繋がっているような空間であり、「離れていて同時に繋がっている」というコンセプトの安中環境アートフォーラムに通じるものである。そして分節されつつも繋がっているというのは、まさに上に書いた、部屋ではなく居場所であるということの「緩さ」ゆえのことではないだろうか。

■「Space of no Intention」
  このような「居場所」は、ではどんな新しい空間を求めているのだろうか。
  それを僕は「Space of no Intention」と呼んでみようと思う。
意図のない場所。それはある意味で、機能主義に真っ向から対立する。しかしこれは、単に意図がまったくない、いい加減な空間という意味ではない。そうではなくて、特定の機能はないが、そしてないゆえに、逆に人に活動を選択する自由を与えるような場所である。押し付けるような意図はないゆえに、きっかけに満ちている、そうして他の場所と関係をもつことができる。人が活動する場所として強固に、緩く成立している

■自然と人工のあいだ
  ではそのような意図のない場所を、意図的にデザインすることは可能なのだろうか。僕は可能だと思う。
  意図のない空間のもっとも身近な例は、それは自然であろう。自然の中の場所はある意味で「Space of no Intention」である。そして自然の場所が作られるやり方というのは、部分と部分の関係性によって秩序付けられている。ここでふたたび「部分の建築」に立ち戻る。部分と部分の関係性、居場所としての建築、意図のない空間、それらが一続きの円環になる。
  意図のない空間は、自然と人工のあいだのような存在になるだろう。それは今までの人工物の概念を少しだけ更新することになるだろう。そのような更新をするには、案外建築は向いているのかもしれない。なぜなら建築においては、居場所などというあいまいな性質が許されるから。あいまいゆえに強固な場所である、という矛盾が可能であるから。建築の緩さゆえの可能性である。
 
  この援護寮には、簡単に引くことができる通り芯がない。全体に通じる大きなグリッドの代わりに、それぞれの場所の関係の中でゆがみながら成立する座標系がある。それは新しい座標系を示唆している。デカルト・グリッドでもなく、自然のものでもない、デザイン可能な不確定性、乱雑さと秩序の同居するような座標系。座標系というのは、単に形のことではなく、何か新しい価値観、僕たちがものを見るときの枠組みのようなものである。そして建築を設計するということは、そのような新しい座標系自体を模索することだといえるのではないだろうか。

JIAマガジン「建築家architects 3月号より」

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